今回の旅行の目的は、ここアウシュヴィッツの見学でした。スロバキアの友人たちには現在の地名オシフィエンチム(Oswiecim)の方が通じました。メンバーは友人の主人、妹、従妹と私です。友人たちが住んでいるプリエヴィッザからアウシュヴィッツまで道のりで250Km弱なのですが、カーナビが付いているのに道に迷ったらしく4:30に出発して9:30頃着きました。ここは収容所の入り口の先で収容者たちがスムーズに行進して、人数を数えやすくするため音楽隊が行進曲を演奏していたそうです。そして「働けば自由になる」の文字のBが逆さまについています。収容者達の抵抗で逆さにした説があるそうですが、ナチスだって気付いていたはず。デザイン的にこちらがよかったからでしょうか??

鉄条網の右側の建物がインフォメーションセンターで本やガイド用のヘッドフォンが借りられます。トイレもあるのですが確か1ZTでチュコのお金を再両替しました。レートは200KCで25.6ZT、安いか高いのかよくわかりません。網の左が収容所の中でキッチンです。収容所の入場料は無料です。

収容所の展示室の中にはユダヤ人が持ち込んだカバン、メガネや靴などが山積みになって展示されていました。私はここの人たちのことを思うとシャッターが切れませんでした。この写真はたまたまガラスに反射して映った収容者の顔写真です。写真の額に花が飾られていたものもあります。ナチスは収容所を開設当初、一人一人の顔写真や各記録を取っていたようです。収容前は75kgあった女性がソ連軍に救出されたとき23kgだったそうです。

天井に血が付いていると友人の主人が教えてくれました。彼は5回くらいここに来たそうで、収容所の中に何があるかよく知っています。他に部屋一面の藁や布団が敷き詰められた部屋がありました。木製の2段ベットがあったのですが1段で2名寝たそうです。各ブロックには静かにと看板があり、10歳の従妹は忠実に守り小声で話していました。そして、ほとんど撮影禁止なのですが写真を写す人も多っかったです。

収容所の一番奥にある死の壁です。右の建物が死のブロックで人体実験や4人が詰められる立ち牢、脱走者の連帯責任の身代わりで餓死刑になった聖人マキシミリアノ・マリア・コルベの牢もありました。左側の壁には板が張ってあり収容者が見れないようになっています。この板に収容者が貼り付けになっている絵もありました。また、各国の展示ブロックがありスロバキアのブロックでは言葉がわかるので、彼女たちはゆっくり見学していました。

銃殺の壁のアップです。ワカメのような壁の材質はわかりませんが軟らかかったです。壁の前には花が飾られ、穴の開いた所や気の隙間に石が詰められ、ユダヤの人たちが供養しているようです。

鉄棒みたいに見えるのが点呼広場にある集団絞首台です。他に移動絞首台もありました。ここではみせしめのための死刑執行もあったそうです。この写真の左側には墓石で道路を舗装した展示室もありました。

ガス室と焼却炉の入り口です。ガイドブックには1日に350人の死体が焼かれたと書いてあります。死のブロックの牢で毒ガスのチクロンBの効果が認められ、大量殺人に用いられていったそうです。

ナチスが使用したプールです。ポーランドの南部ですが、夏のほんのわずかな時間しか使用されなかったと思います。収容ブロックからも当然見えたので、収容者の人たちはどんな気持ちで見ていたのでしょうか。あまりにも惨過ぎると思うのは私だけでしょうか。

ビルケナウ編へ