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セネガルの旅-ゴレ島生活編 [旅行-セネガル]

もう、2月になっていたのですね(^^♪。今回はゴレ島の生活編です。

ダカールからの船がゴレ島の港に着くと子供たちが出迎えてくれました。12時発の船では観光客が投げたコインを拾う子供達もいましたが、そうゆうのはあんまり好きじゃないな~。帰りの船を待っていたときは靴磨きの子供たちが多くいました。

教会へ行く手前で、日本の無償協力の看板を見つけたので写真を写しました。日曜日だったので児童はいませんでしたが、この小学校を修復したようです。日本の無償協力の看板はあまり目立たないところにあるのですが、この看板は目立ちました。西洋人はみんな通り過ぎていきましたが、こんなのに興味を持つのは私だけかな?

厳粛にミサをやっていたのでカトリックでしょうか?1830年にできたそうです。洗礼を待っている赤ちゃんがいました。

島の小路には花が咲いている場所が多いです。歩き疲れた体に、和みを与えてくれました。

ここは海軍病院の横の道を行った突き当り。ゴレ島からダカール市内を見ようと思ったので進んだのですが、ゴミ捨て場のようでした。途中にはまた糞が点在していました。島の人たちも何でこんな所に来るの?って顔をしていましたが・・・。

ここは島の中央の広場。タンザニアでもそうでしたが、女性が頭の上に荷物を載せて歩いているのが印象的でした。私は水の入ったバケツを頭の上に載せることもできないでしょう。隣では子供たちがサッカーをしていました。

猫が面白い格好をしていたので写しました。お天気が良いせいか、セネガルの猫がリラックスしている姿を多く見かけました。

島の北部の要塞ですが、今は歴史博物館になっていました。Lonely planetでは200CFAと書いてあったのですが、入り口の料金表は500CFAとなってたので入るのを止めました。2年でこんなに値上がりするとは観光客の足元を見ています。私が写したかったのは洗濯をしている人です。何気なく人を写すのは難しいですね。

お、エビの頭を乾燥している!群がっているハエも写したかったのですが、この写真じゃわかり辛いですね。新潟のお寿司やさんで甘エビの頭の味噌汁を出してくれるのですが、こちらはどうやって食べるのでしょう?後日、紹介する魚市場でエビの天ぷらを作っていた人は頭を捨てているそうなので、あまり一般的でないようです。


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セネガルの旅-ゴレ島観光後編 [旅行-セネガル]


奥の黄色い建物は女性の博物館(Musee de la Femme)で、この像は奴隷の館(La Maison des Esclaves)の間にあります。こんな感じで別れを惜しむことができたのでしょうか。二人とも体格がいいので食べ物には困っていなかったことが伺われます。

奴隷の館はまだ開館前だったので、裏側に回って見ました。中央の窪みがアフリカの出口となりました。海岸線はゴミや糞(人間だと思います)がありハエがいるので、神経質な方は避けたほうがいいです。

10:40頃、再度行ったらすでに中は満員で長蛇の列。11:45頃なら減ると言っていたので11:30頃、再々度行きました。私の2008年のダカールラリーのTシャツを見て話しかけてきた人がいました。隣の彼は1997年のダカールラリーのTシャツを着ていました。入場券はまたガイドが中に入って買っています。私はツアー客の中に500CFAをもって並んで、中に入ろうとしたらツアーガイドから手で払われました。すかさず私は「どこで入場券が帰るの?」と入場整理の人に聞いたら、目の前の門の裏を指して無事に入場することができました。

世界遺産のTVで見た印象と違い、建物は思ったより大きくありませんでした。ここは2階の部分で奴隷商人がいた部屋です。小路を挟んだ向かい側の家もよく見えました。1776年にオランダ人が建てたそうです。フランスの援助で修復されているようで、綺麗になっています。

部屋の中は説明文や手錠などが展示してあります。これがないと奴隷の館だったて分からないですね。断食をして自殺しようとしている人の口を無理やり開けて食料を流し込んだりする器具も使われたようですが、展示されていませんでした。

一階が奴隷となった人達の部屋で男性や女性とかで分かれていました。二階へ登る階段の下にも部屋があったのですが、ここは狭かったです。事務所では恐らくフランスのTV局だと思いますが、館長らしき人にインタビューをしていました。

ここが館の出口。ガイドブックでは毎年300人のアフリカ人がここから出て行ったそうです。合計で12,000人くらいだそうですが、アフリカ大陸から奴隷になった人は900万人~2000万人と言われているので0.1%位に過ぎません。セネガルの人口が1100万人弱なので全国民が奴隷となった数になります。

この出口を振り返ってアフリカを惜しむことができたのでしょうか。ここは負の世界遺産になりましたが、このような場所が他に1,000箇所も有ったのでしょうか。小学生なども対象にしているためでしょうか、今の施設や展示だけではその当時の悲惨さがあまり伝わってきませんでした。

お昼を食べて帰ろうかと思ったのですが、そうすると2時間以上待たないといけないので12:30発(実際は12:45頃)の船で帰りました。アジア系の人は12時のダカールから来る船に3名乗っていましたが、他に見かけませんでした。・・・無事にアフリカ大陸に戻って来られました。

お昼は食べず、夕食は日曜日でも開いていた中華のDonjin(東京)へ連荘で行きました。今日のオーダーは五目焼きソバと海鮮スープにビールで6500CFA位だったと思います。お客の英語を話すアフリカ人は私が食べてた、焼きソバが気になっていたようです。彼らはチャーハンを食べていたのですが、塩を頼んでいたので、この店の塩味が強いのも納得しました。それにしても中国人のお姉さんは働かないなー。

時間は交差しますが、ゴレ島生活編へ続きます。


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セネガルの旅-ゴレ島観光前編 [旅行-セネガル]


1月20日(日)は本来ならダカールラリーのゴールの日でラック・ローズ(Lac Rose)でラリーを見ていたはず。ブルガリア人のレスリングコーチからお土産にもらった、このTシャツを着て過ごすことにしました。

ホテルを8:00に出て、歩いてゴレ島(Ile de Goree)行きの港まで15分で着きました。次の船は9:00発なので、待っている人は2、3人でした。8:30位になるとバスのツアー客が多く押しかけてきました。切符の窓口は8:40頃開いたのですが裏口からツアーガイドが切符を購入するので、一般客は遅くなります。船の料金は往復でセネガル在住の人は1500CFA、アフリカ在住の人は2500CFA、その他の人は5000CFAでした。私はチュニジアのIDを出して2500CFA出したら、表紙だけ見て切符を買えました。時間が過ぎても乗船する人がいるので出船は9:10頃でした。そうそう、ゴレ島で帰りの時刻表を見なかったので、ここで確認するといいです。小さな島なので食事をしなければ3時間後の船に乗れば十分です。

ダカール港内は重油が浮いており少し臭いました。船は満員で、救命道具説明があったりして30分ほどで着きました。港の広場では団体客がブースでお金を払っていましたが、私はコンサートのチケットかなと思いそのまま通り過ぎました。Lonely planetには観光税500CFAを払うと書いてありますが、ほとんどの人が支払っていないと思います。

世界遺産の奴隷の館に最初行ったのですが開館が10:30だったので、島の南側のにあるお城へ。この島は要塞だったらしく高台には大砲がありました。他はドラムの音がしたので中へ入ってみると色のついた砂で書いた絵が売っていました。

大砲の横に人が日光浴をしているのかなと思いましたが、よく見るとオブジェでした。土産物屋さんを写すときも聞いてから写真を取るようにと何処かのガイドに言われたのですが、誰もいなかったので写しました。

ゴレ島から見たダカールの風景です。写真の右側に港の入り口が見えます。そしてビルが多く立派な街です。このロケーションならダカール港を守る要塞にピッッタシですね。

こちらは高台のお城から北側を写した写真です。島の先端に別の要塞が見えます。ここの景色はこの写真より綺麗に見えました。パノラマ撮影ができれば良かったのかな?

北側の要塞の近くで、石を彫刻していた人がいたのでしばらく見ていました。ゴーグルをして石を両足で押さえ、ノミと金槌で削っていました。家のオブジェになっていたので写しました。

後半へ続きます。


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セネガルの旅-アフリカ大陸最西端 [旅行-セネガル]

ホテルの予約をしてもらったセネガル人と10時~10時30分の間で待ち合わせをしたが、ホテルのロビーに現れたのは11時でした。時間いついては日本が厳しすぎるのかな。
彼女を紹介してくれたには、旧CFA札の持ち主。彼の勧めで、アフリカ大陸最西端のポアン・デ・アルマジ(pointe des Almadies)のレストランへ行くことにした。ホテルからタクシーで交渉して3,000CFA(750円)でした。途中、ダカールの官庁街や日本大使館などを紹介してもらい30分くらいで着きました。タクシーのドライバーが帰りも送りたいと言うので、13時30分に迎えに来てもらうことにしました。

浜の先が恐らく、最西端です。この先はClub Medの敷地になっていて入れませんでした。お金を出せば入場できるそうですが、最北端に続き敷居の高い場所でした。同行の彼女もClub Medの方は行くけど、この場所は初めてと言っていました。

一般市民はこちらまで、干潮だったので石の間を泳ぐ小魚を観察することができました。写真の女性がお世話になった人なのですが、デジカメのタイムラグで顔が写っていませんでした。彼女は以前JICAセネガル事務所で働いていたのですが3年契約だったので、今はアフリカの人達の人材派遣の仕事をしているそうです。大学で英語を勉強したそうで、綺麗な英語を話します。JICAでは英語はあまり話さなかったけど、現在の仕事は毎日英語を使うので忙しいけど楽しいそうです。レストランはLa Pointe des Almadies。中にプールがあり、花も多く素敵なレストランでした。私はシェフのお勧めの魚料理を食べたのですが、柑橘系のソースとマッチしてGoodでした。デザートのシャーペット3種類を選べて美味しい。お値段もよく、二人で30,000CFA位でした。水がフランスからの輸入品で2,000CFAもしたので、持ち帰りました。そして、我々二人以外の客は皆西洋人でした。後日、旧CFA札の持ち主曰く「一般庶民のレストランの貝の山盛りが美味しかったのに・・・」と。まあ、美人のセネガル人と楽しい食事ができたので大満足でした。

話が弾んだのでタクシーの待ち合わせの時間より20分ほど遅れましたが、ドライバーはちゃんと待っていてくれました。帰り道、目に付いたので記念にLes Mamelles Lighthous(灯台)を写しました。帰国時に空港へ向かう夜は輝いていました。当たり前か・・・。

この写真はIles de la Madeleineと言うリゾートアイランドだそうです。確か3月にあるイスラム国会議もここで開かれると言っていたと思います。(←ネットで検索しても出てこないので違っていたようです。)彼女は忙しいらしく、私が彼女に頼むと安くなるので次に向かうホテルの予約をお願いして、土曜日の午後なのに仕事場へ行きました。
夕食は韓国料理の帰り道に見つけた中華のDonjin(東京)へ。まだ20時前で早いのか、お店はご主人と2名女性の中国人が中国のCCTVをみていて他の客はいませんでした。東京は日本人向けのアピールか??料理は東京スープ、広東チャーハンとビール。ビールは650mlで1,500CFA、合計で5,500CFA位でした。塩味が少し強いのですが新潟出身の私は美味しくいただき、安くて美味しくホテルから近いので計4回通いました。


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セネガルの旅-ダカール [旅行-セネガル]

チュニスからTU613便17:00発予定が45分遅れで出発。飛行機はダカールラリーのキャンセル客が多く出たのか預け荷物を後部座席に積み、3席を一人で使っても十分でした。ダカール(Dakar)まで5時間のフライトで機内食が2回あり、ワインも飲めました。しかし、映像機器がなく映画も音楽も聴けません。食べて寝て、22:30にダカールに着きました。空港ではヨーロッパ便の客もいて少し込んでいました。セネガルは観光ならビザは要らないのです。黄熱病のイエローカードを見せたらそっけなく返されました。ブルガリア人のレスリングコーチから10,000CFA(2,500円)を両替してもらっていたのですが、札なので小さくしようと水を買おうとしたら、外に出て左に行けと言われました。よくわかんなかったのでもう一回聞いたらレストランを案内され、1.5リットルの水を1,500CFAで買いました。思わず「高けー」といってしまいました。今度は右側に行ってタクシー乗り場で値段交渉。メーターがないのです。言い値は5,000CFAで私がLonely planetに書いてある3,000CFAと言ったが4,000CFAまでしか下げない。しょうがないので少しうろうろして出口のほうで3,000CFAのタクシーを見つけました。帰国時にわかったのですが、左側に沿って出発ロビーの前を過ぎ、門をくぐるとダカール市内から来たタクシーが捕まります。相場は2,500~3,000CFAだそうです。でも、到着ロビーのテレビ画面には5,000CFAと書いてあるとか。
空港からダカール市内まで25Kmあると、価格交渉のおじさんが言っていました。工事中の道が多く、車のヘッドライトは土埃を写していました。
ホテルに23:30頃着、バーの330mlのビールが1,000CFA、で水はいくらかと聞くと1,000CFAだって。ビールと水が同じ値段なんて初めての国でした。

朝方テレビで「トラ・トラ・トラ」をやっていました。これは日本が製作した真珠湾攻撃の映画なのですが、日本語と英語の放送で字幕はアラビア語。私は日本語が聞けてよかったですが、このテレビ外国人向け?なのでしょうか。セネガルでお世話になる人に電話で連絡を取り、JICAセネガル事務所へ。私の滞在したホテルの部屋の窓から事務所を写した写真です。事務所ではスリやタクシーの窓からの引ったくりに注意してくださいとアドバイスをもらいました。その後、旧10,000CFA札を新10,000CFA札に替えるため近くの銀行へ行きました。CFAはセネガル以外にも西アフリカの国で使用でき、コート・ディ・ボアールでもらったお金を何年も忘れていたので交換してくれとチュニスで言われたものでした。で、何十枚も有った旧券は2006年で交換は終了したようです。私は現金をこれしかもっていなかったので、横のカウンターでキャシングをして食い継ぐことができました。

本屋で年賀状の返事のための絵ハガキ3枚675CFAで買って、郵便料金は日本とアメリカは同じく1枚650CFAでした。お昼はサンガダ市場(Marche Sandaga)の近くのアジアレストランでカレーとぺリエを飲んで、7500CFA位でした。味はまあまあでしたが、香辛料の新鮮さはインド洋に面したタンザニアに分があります。ホテルへ向かっていたらすごい人がござを持って向かってきました。2時頃だったのでこれから午後の仕事かなと思っていたのですが、後で聞いたらグランドモスクの礼拝だたそうです。金曜日以外でも歩道で礼拝をするのを見かけましたが、この日は足の踏み場がなくなるくらいだそうです。少し遅く通って助かりました。チュニスじゃ道に車の山ですが・・・。市内では写真を写さず大統領官邸の前で観光客がいたので私もバックからカメラを出しました。

なぜなら、横に警察官と軍の人がいたので安全なのです。本当は4名いたのですが彼らなら写真を写して良いと言われ2名だけ写しました。セネガルの人は写真を写すとお金を請求されるので、人を写すときは要注意です。

観光客がいなくなったので、衛兵のところへ。挨拶をすると返事をしてくれたし、他の軍人にはからかわれていたようで、アフリカらしい陽気な衛兵でした。

ここはダイビングショップの前の海から写したダカール市内の様子です。ダカールの街は大きく、ビルもチュニスより多いと思います。同じブラックアフリカなのでタンザニアのダル・エス・サラーム位かと思っていたら大間違いでした。

ここは朝方の独立広場(place de l'independance)。人がいないのでカメラを出しました。日中は物貰いの人や詐欺師が多い地点です。"Do you remember me? I work at ○×○× hotel."と私の滞在しているホテル名を言って話しかけてきます。私が無視していたら、30mほどしてまた同じ手口を使われました。仮に本当なら、後日ホテルであったときに、また話しかけるはずです。知らない土地は用心すべきです。Lonely planetにも同じ手口があると書いてありました。
夕食は韓国レストランへ、プルコギとビールを3本飲んで10,500CFA位でした。私がゆっくりと肉を味わって食べていたので、隣の席の韓国人がガスの火加減を調節してくれました。彼らは豚バラらしき焼肉とビビンバ麺を食べていました。5種類位のお通しもうまく大満足。ダカールはアジア料理が食べられて良いところです。


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セネガルの旅-プロローグ [旅行-セネガル]

1月4日の9時30分頃、フランス語に強いシニアボランティアから電話がありました。「AFP通信のホームページでダカール・ラリーが中止と書いてある」と言っていました。本人曰く、「通信社の情報を新聞社が買うので、こちらの方が情報が早い」と。
私は電話をしながらすぐにフランスのYahooへアクセス。確かに"annulation"中止と書いてある。フランス語だとよくわからないのでイギリスのYahooへアクセス。何も中止のことは書いていない。当然、日本のYahooや日本語のAFP通信のサイトも正月モードが残っているのか、中止のことはでていない。
昨年の12月24日にモーリタニアで4名のフランス人がアルカイダに殺されたけど、ダカール・ラリーはモリータニア軍の保護を受けて決行すると書いてあったのに・・・・。
その後、フランスのYahooで13時(ポルトガル時間12時)から、大会本部のASOから正式な発表があると書かれていた。私はコースが一部キャンセルになるなど、わずかな期待を持って正式発表を待っていました。
イギリスのYahooでは11時30分頃中止の記事が載り、日本のAFP通信の速報は12時頃、正式な日本語はMSNのニュースが一番早く検索でヒットし12時30分でした。その後、浜崎あゆみの耳の件で、日本より中国のメディアが早く流したと書いてありましたが、関心度の低い情報は3時間も遅く一般の日本人へ伝わるのが実感できました。後日、トヨタのチームTLCのレポートを読むと11時40分(ポルトガル時間10時40分)に電話連絡が入ったそうです。と言うことは私が2時間先に情報を得ていたことになります。このレポートはhttp://www.toyota-body.co.jp/dakar/news/index.htmlでラリーの裏方さんの目で書かれており大変参考になっていました。8号で終わったので、来年はゴールまでレポートできることを祈っています。
13時の正式発表は大会中止。私はそれから連絡を取っていたセネガル人2名と日本人2名に、「ダカール・ラリーは中止だけどセネガルへは行きます」とメールをしました。
翌日以降はラリーの中止を心配して電話をかけてくれたシニアボランティアがおられたり、セネガルの日本大使館の新年会がダカール・ラリーのゴールの翌日1月21日から2月に変更になったなどの情報をもらいました。新年会ではラリーに参加した日本人も出席すると聞いて期待していたのですが、残念です。
そして、セネガルへ移動したブルガリア人のレスリングコーチ(1月はウクライナで合宿)が11月下旬にトランジットでチュニスに寄ったときにもらった、2008年のダカール・ラリーのTシャツをバックパックに詰めて旅たつことにしました。


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