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東欧の旅-スタラザゴラ豚解体編 [旅行-ブルガリア]

もう3月になりブルガリアの旅行から帰って2ヶ月が過ぎました。今回でブルガリアのブログは最終回です。
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友人宅でクリスマスに知人を呼んで豚の解体パーティがありました。この写真は解体が終わり自家製ロゼワインで宴会をしているところです。これから先の写真はグロテスクな場面もあります。見るのがいやな方は進まないでください。
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小屋で飼われていた120kg位の豚が紐で縛られて庭に出されました。豚は人が多く雰囲気が違うにもかかわらず、おどおどしていなかったので殺されることに気付いていなかったようです。友人はレスリングコーチなので、豚の足を取ってタックルを一発で決め倒しました。そして頚動脈にナイフを入れました。友人は私が嫌がるのを心配して日本にいる時からメールで知らせてくれたのですが、フィリピンにいたときに何回か見ているから大丈夫と言っておきました。
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プロパンガスで焼きながらスコップで豚の毛を剥がしてゆきます。プロパンガスはここだけに使っていたので前回書きましたがロシアにガスを止められても生活にたいした影響はありません。そして毛を剥がし終わったら更に念入りに周りを焼いてゆきます。フリピンではレチョン・バボイと言って豚の丸焼きにします。だからこの工程はなかったと思います。実はとっても大事な工程で答えは後の写真に出ます。
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横では奥さんがサワークラフトのようなキャベツの漬物を煮ています。後で豚肉を入れてブルガリアの伝統料理を作るそうです。友人は豚肉が好きで牛肉はあまり食べないそうです。チュニジアで夕ご飯をご馳走になった時も、ブルガリア産の豚肉を食べさせてくれました。
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次は作業がしやすいように豚を台の上に乗せて、お湯をかけた後にタオルをかけて蒸します。そして、写真のように綺麗に黒焦げの皮を剥がします。すでに耳が切り落とされています。
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耳や内臓などはスライスタマネギ、レモン、ロゼワインと塩コショウの入った鍋で蒸し焼きにします。こいつをつまみながらワインを飲んで更に解体を進めます。外気温はマイナス5℃位なので厚着をして動くか、火にあたりながらお酒を飲まないと体が冷えます。
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黒焦げに皮を焼いた答えです。カッターで細長く切った皮を、四足を切った上に塩に付けて食べるのです。ブルガリアもフィリピンも皮が好きなのは同じです。この工程は小休止でしょうか。
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最後に内臓を取り出します。胆嚢は可愛そうに地面に捨てられました。胃や腸を縛って豚が食べていたものが出ないようにしていました。そして胃や腸は裏庭で中を取り除き、ベーキングパウダーとワインビネガーに漬けて殺菌をしていました。これらは人間が食べず脂肪と一緒に犬の餌になったようです。そして枝肉にして今日の作業は終わりで9時から始まった解体は2時頃終わり、最初の写真のように3時頃から宴会が始まり、人が入れ替わって夜中までにぎやかでした。

翌朝、奥さんは知人の肉屋を呼んで外に吊るして凍った枝肉を分けていました。こんなことができるのも冬で気温が低いからですね。一日ですべてを終わらせるのは大変だし、肉の熟成を考えても一日時間(豚は3ヶ日だったかな)をあけた方がよいでしょう。家族愛を感じさせられたブルガリアの旅でした。

次回は青年海外協力隊の二本松訓練所へ行ったことを書きます。
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東欧の旅-スタラザゴラ生活編 [旅行-ブルガリア]

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友人宅は黄色く塗られた家の裏側です。どの家も屋根の家に煙突が何本かります。緑色の門の前には家族で死んだ人の写真が貼ってあります。こうやって彼らを忘れないようにしているそうです。写真は郵便局前の掲示板にもありました。こちらはお悔やみのお知らせだと思います。家の前の道は舗装されておらず、ロバが紺色の車の後ろにあるような荷台を引いているのも多いです。近所付き合いもよく、電話で確認しなくてもいつでもWell come.と言っていました。
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私は娘さんのベットを借りて寝ていました。パソコンも普及しているらしく、SKYPEからのチャットメッセージが頻繁にきていました。友人がチュニスや日本で奥さんがブルガリアの時は、いつもビデオを付けている時もありました。
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これはバニッツアと言って、小麦のシートをバッター(ヨーグルト入り)でつないで焼くパイのようなものです。この日は大晦日で、おみくじを入れたり、コインを入れてよい新年を祈るようです。ちなみにヨーグルトは脂肪分が1.5%から3.3%と数種類ありました。料理には低脂肪のヨーグルトを使っているようです。味は日本のブルガリアヨーグルトに似ていますが、一人前はカップ(400ml)全部食べさせられます。
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部屋の外の階段にあるレンジとオーブンです。熱源は電気でした。友人曰く、台所が小さいのと煮物の臭いが立ち込めないのでこうしていると。奥さんの喫煙所にもなっています。
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部屋の暖房の名前はペチカと言っていました。煙突の下についている四角い箱がラジエターの役目をして部屋を効率的に暖めてくれます。熱源は材木と石炭です。1月にロシアがウクライナにガスの供給をしなくて東欧諸国が困っているとニュースが流れていましたが、友人の家庭でガスは使っていなかったので安心していました。部屋は暖かいのですがすごく乾燥し、そのためか風邪をひいてしまいました。
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友人宅の裏庭からスタラザゴラの市街を写しました。裏の畑はライ麦だったか大麦だったか小麦だったか・・・。友人はジャーマンシェパード、近所も犬を飼っている家が多いです。朝はマイナスの気温で犬が水を飲めず、氷を割っていました。隣の家はロマの家族が借りていて、暖房に靴とかプラスティックを燃やすので空気が臭くなると言っていました。
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大晦日は友人の友人宅へ行きました。建材に使う石を貿易しているそうで、少しお金持ちでした。猟で獲ってきた鹿肉のシチュウーは美味しかったです。医者の友人が自家製ワインとリカーを持ってきて美味しかったです。そして、0時を過ぎると女性たちはダンスを始めました。日本人が初詣へ行くように、お決まりのようです。
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これは木の枝にポップコーン、プルーンやリンゴを指して子供が背中をたたきます。厄払いのようなもので、子供はお年玉がもらえます。

この後ブルガリアの公共放送で1時頃から黒澤 明の七人の侍を放映していました。突然スタラザゴラに現れたアメリカ人はこの映画をよく知っており、コメーディーと言っていました。私は風邪でゲホゲホして入らなかったですが、マイナスの気温の中でジャグジーに入り星空を楽しんだ人たちも。元レスラーなのでタフな人たちです。

アメリカ人が突然現れ友人はすごいジョークでスタラザゴラに迎えたのですが、ブログに載せるのは止めておきます。お世話になった友人がアメリカに行ったら、どんなお返しが待っているか楽しみです(^^♪。

スタラザゴラ豚解体編へ続く
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東欧の旅-黒海 [旅行-ブルガリア]

2月も1/3が過ぎ、ブルガリアから帰国して5週間が過ぎてしまいました。
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ブルガリアは登録されている市以外に出る時は車にお金を払ったシールを張らなければいけないそうです。友人のシールは2008年までなので新しいシールを買いにガソリンスタンドや保険屋を回り、スタラザゴラで唯一売っているガソリンスタンドを見つけて買いました。スタラザゴラから車で国道を走り3時間位でネセバル(Nesebar)に着きました。途中から雪が平原に積もっていました。高速道路が長くなり、友人は3年前と変わってどこで降りればよいか、迷っていました。ネセバルの対岸のリゾートホテルで友人の友人(元レスラーでホテルのガードマン)と息子(元レスラーでガードマンとボディビルダー)とお茶をしてから島を見学しました。アラブ系の人がトラブルを起こすと愚痴っていました。
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左に風車、右にハト?と女性のモニュメントを過ぎると島の入り口は要塞になっています。島を右回りに回ろうとしたのですが途中で行き止まりになっていました。今はオフシーズンなので車は街の中に入れましたが、道が細いので夏はどうなのでしょう。交通の要所としてトラキア、ギリシャ、ローマ、ビサンチンと支配されてきました。
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迷いながら出たところにスタラタ・ミトロポリャ(聖ソフィア教会)がありました。5,6世紀のビサンチン時代に建てられたそうです。チュニジアのビサンチン時代の遺跡と違い石の柱が入っていません。チュニジアならローマ時代の建て方です。
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これは聖パントクラトール教会です。アーチの部分に青磁が埋め込まれており綺麗でした。14世紀に建てられた教会です。ブルガリアの王様は友人の家にあった本を見たら、680年にブルガール人(アジア系)のアスパルフハンから始まっていました。
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ネセバルから北に8km続くサニービーチ(Sunny Beach)です。この日はマイナス10℃位だったので砂浜も硬く絞まっていました。ホテルや別荘が何重にも延々と続き、チュニジアのリゾートと規模の大きさが違いました。工事中のホテルもあり、まだ開発が続くようです。でも、日本からここにわざわざ来る必要はないでしょう。そうそう、前の会社ではサザエによく似たアカニシガイを黒海から輸入していましたが、浜で貝殻は見なかったな~。

スタラザゴラ生活編に続く
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東欧の旅-シプカ [旅行-ブルガリア]

もう1月も終わりですね。久しぶりにはじめたスキーにハマってしまい書き込みが遅れてしまいました。
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スタラザゴラから車でバラ畑を横切り30分位でシプカ(Shipka)に着きました。友人はこの町に何人かの日本の方々が住んでいるそうです。街の中心街にあるホテル前の看板には日本語のメッセージもありました。友人から日本人を探してみるかと問われたのですが、急に訪問しても迷惑と思い断りました。この地域はバラの香水の特産地で、パリの有名ブランドの香水にブレンドされるそうです。ちなみにバラの香水はソフィア(Sofia)の空港では3倍しました。
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シプカのロシア正教会です。教会の中はクリスマスが終わったばかりなのに何も特別なことはないようでした。正面に向かって右側がロシア正教の聖人で、左側にはブルガリアの名士の絵が描かれているそうです。1878年の露土戦争で亡くなった兵士を弔うために建てたようです。1900年頃に立て始めたのか完成したのか忘れました。僧侶から友人が聞いて英訳してくれるのですが、6名の兵士の骨が・・・とかでトラキアの墓と混同していて何回聞いても理解できませんでした。友人は逆十字を確か2回切っていました。最後は心臓で終わるそうです。カトリックのやり方に慣れている私にとってすごく不自然でした。
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一枚目の看板がある広場からロシア正教会を写した写真です。近くの山頂には露土戦争を記念したモニュメントがあるそうですが、この日はスタラザゴラでもマイナス10℃で寒そうなので行きませんでした。
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先ほどのロシア正教会で友人の友人と待ち合わせて、彼のシプカの別荘へ。友人の友人はバラの谷で有名なカザンラク(Kazanlak)に住んでおり、ブルガリアの女子ジュニアチームがチュニジアに遠征した時に会ったことがありました。1907年に建てられた家を買い内装を新しくしていました。この部分はまだ手を加えていなく、日本の昔と同じような感じで土壁に、写真左の建物は昔の日本のようなボッチャン式のトイレです。子犬の番犬がいたのですが、餌はラードでかわいそうでした。ラードは凍りにくいのかな?
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シプカの近くで一番整備されたトラキア人墓、ゴリャマ・コスマトカへ。入場料は3LVでした。墓の入り口のこの地点で青銅の銅像の頭部部分が発掘されたそうです。これはレプリカですが、目の部分は半貴金属の小石だそうです。カザンラクの博物館にも同じレプリカがありましたが、目が入っていませんでした。ちなみにカザンラクの博物館には黄金のマスクのレプリカもありましたが、ヒビの部分が裂けていません。
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厳寒期でチケットを売っている人も暇らしく、オストルシャの墓を案内してくれました。普通のトラキア人の墓はドーム型なのですが、ここは家型でした。この写真はその墳墓を覆っている建物で中は空調されています。墓室は40tで、屋根は14tのそれぞれ一枚岩でできているそうです。発掘時に中をこじ開けようとして2箇所かけていました。どうやって屋根を乗せたかは不明だそうです。屋根はギリシャのパルテノンのような三角屋根で、軒の装飾は正四面体がつながっておりエジプトの影響を受けたそうです。室内から屋根裏を見ると三段階になっており地獄、現世、天国と分かれているようです。屋根には絵が書かれていますが、ほとんど破壊され、女性の絵だけが色彩豊かに描かれていました。中の写真は貴重だと思い写真を写すのを遠慮しました。イメージだけですみません。
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ここは確かシュシュマネッツの墓です。この場所はこの地域の渓谷を一望できる位置にあり、墓の前は儀式をする場所と見張台だったようです。中にはトラキアの墓には珍しく柱が2本立っています。柱はモルタルでコーティングされ床には馬の歩いた跡と蜀台か何かを置いた跡がありました。
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ここはヘルヴェツィアの墓です。スイス人達によって発掘されたので、ヘルヴェツィアと言うスイスの地名をつけたそうです。墓の前室は女性の膣を模しているそうで、左右対称でなく、屋根の部分の膨らみがずれていました(この墓でなかったかもしれません)。この前のいけにえにされた馬が見つかったそうです。墓室の左側の扉は赤く塗られ日の出を意味し、左側は黒く塗られ日没を意味しているそうです。赤い扉は動きましたが黒の扉はだめでした。墓の正面は南で、冬至の日に墓室の中央まで日が届くように作られた墓もあると、カザンラにある墓に書いてありました。そう墓は小山の南側に埋もれているのです。トラキア人にとって3,7,10が大切な数字で、墓に中は三段構造になっており、壁の石が7段だったかな??と柱の彫刻の線が10本だったかな??でした。

帰国後ちょうど新潟伊勢丹でトラキアの黄金文明展をやっていたので見てきました。黄金のマスクの本物もありました。紀元前5000年頃にブルガリアの黒海沿岸に最古の最古の黄金文明があったそうですが、侵略の繰り返しでどこの民族の文明か不明だそうです。その後ギリシャの影響を受けつつ、紀元前12世紀から4世紀頃までローマの属州になりながらもトラキア文明があったそうです。紹介した墓は紀元前3,4世紀頃に建てられ、1990年代から2000年代に発見されたもので金製品が多く見つかり21世紀の大発見だそうです。でも私がトラキア聞いて最初に記憶にあるのはギュスターヴ・モローのオルフェスの首を運ぶトラキアの娘でした。ギリシャ時代の記録でトラキア人は好戦的で多妻の習慣があり野蛮人と考えられていたようです。トラキア人は政治的に統一されておらず20位の独立種族だったそうで、統一されていればカルタゴのようにローマ時代の歴史にも残ったことでしょう。

黒海編へ続きます。
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東欧の旅-スタラザゴラ [旅行-ブルガリア]

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友人の住んでいるスタラザゴラはブルガリアの中央にあって、人口が5番目の年だそうです。西の首都ソフィアと東の黒海のブルガスまでそれぞれ200km位です。ブルガリアで2つしかないトラキア大学や軍の空港もあります。この写真は市役所に飾られたクリスマスのイルミネーションです。スラタとはブルガリア語で古いを意味し、新しいザゴラと言う意味の街もあります。私は友人宅に宿泊する届けを出しに警察に行ったら、他のブルガリア人が日本のパスポートを持って同じく届出をしていました。私は彼女から届出を記入してもらいラッキーでした。ホテル以外に宿泊する時は入国48時間以内に届出が必要です。銀行では国際キャッシュカードで難なくレバ(LV)を引き出せました。ブルガリアのお金の単位は単数と複数で語尾が違い、レバはどっちだったかな?
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ここは市役所横の公園で1877年にトルコ軍によって焼き尽くされた記念碑だそうです。1378年にもトルコ軍によって焼き尽くされたそうです。街にはロシア、チェコ、ルーマニア、ドイツ、フランス、スペイン、イタリア、アメリカ、韓国と日本製の車を見かけ今でも文明の十字路だと感じました。隣には1877年以降最初に建物が造られた記念の石が埋められていました。
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ローマ時代の街と劇場の遺跡もありました。ブルガリア語で書かれた数字を見るとたしか2~3世紀と書いてありました。マイナス8℃位で寒く直ぐに喫茶店に行ったので、壁により他の時代の遺跡もあるようですがどれがどれだか分かりませんでした。そうそう、喫茶店でミルクの上にネスカフェやココアをかけて出すメニューがあります。コーヒー豆を使うのはエスプレッソ、チュニジアより美味しかったです。
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トルコの寺院と言っていましたがモスクですね。モスクにはイスラム教のシンボル、月と星が飾ってあったそうですが壊されたそうです。私に詳細を説明してくれましたが、書き込みは止めておきます。ニューヨークのモスクにも無かったので破壊されたのかな??ブルガリアにはスラブ系、トルコ、ロマ(ジプシー)の人たちがいますが仲が悪いようです。友人の友人がスイスに訪れた時、入国管理官にどうして色が黒くないか聞かれたそうです。社会主義時代はロマの人たちと居住区を分けていたそうですが、今は自由になり生活の違いで摩擦があるようです。
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友人の奥さんの祖母が死んだので、お悔やみにバラの花を2本買っていました。それから我々は別行動で彼女だけ葬式に行き、お返しにビーニール袋に入ったジュースやお菓子をもらっていました。後ろの教会とは違いますが1877年のトルコが侵略した時に、スタラザゴラ市民2,500名が教会内で虐殺され2名の少女だけが生き残ったそうです。別の場所には遺骨を集めた墓地もあります。この教会の中に入ったのですがブルガリア正教のためかクリスマスの名残はなく厳かなものでした。
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ここはスタラザゴラ郊外の丘の上にある1877年の露土戦争のモニュメントです。ブルガリア人はモニュメントが好きらしく山の上に聳え立つ巨大建設物をよく見ます。今は教会で結婚式をするそうですが、社会主義時代は市役所に届けてから階段の下にに花を飾ったそうです。そして、反対側の林で記念写真を撮ったと言っていました。
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街の中で感心したのは信号にタイマー表示があることです。何秒で切り替わるか分かるとイライラしなくてもいいですよね。ここはスタラザゴラに新しくできたPARK MALLの近くです。モールは大きく置いてある品物も悪くありませんでした。
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先ほどのモニュメントと反対側にあるトラキア大学裏のトラキア時代の墳墓です。バラの谷で有名なカザンラクだけでなくブルガリアの広範囲に墳墓があります。

シプカ編へ続く
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