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MAP OF PANAY 21 [フィリピン]

Tigbauan
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ティグバアン教会
ティグバウアン教会には、イロイロの豊かな多くの宗教的宝物があります。
このは外観より内装で豪華さを披露していました。

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ティグバアン教会のモザイク
特に印象的なのは、明るい色の小さなタイルの複雑なモザイクで描かれた十字架の道です。
間違っていたら申し訳ありませんが、モザイク画は石やタイルでなく溝を掘った石灰の上に色付けしたように見えました。でも、鮮やかな使いで薄暗い教会の中に映えていました。

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パナイ解放記念碑
日本の侵略を、1945年3月18日にアメリカによってパナイ島が解放された記念碑です。
この記念碑はOtonにあると思い、Map of Panay 1の地図ではOtonの地名が黄色になっています。フィリピンの方からこの記念碑はTigbauanとGuimbalの間とメールがあり訂正をしました。20年前はまだパナイ島の情報がネット上で少なかったためか、現地の人々も私のHPを見てくれていて嬉しく思っていました。

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SEAFDEC
SEAFDECは、東南アジア漁業開発センターを意味します。東南アジアの国々に5つの(おそらく)部門があります。ここは魚の養殖に関する研究所です。
協力隊時代はここで研究していた専門家のお宅に伺い、日本食を食べさせていただけるのが楽しみでした。SEAFDEC方々とは色々と縁がありました。大学院のときはシンガポールで働いていた専門家の息子さんが先生をしていました。私がフィジーの南太平洋大学(USP)で活動していた時は、SEAFDECで働いていたフィリピン人がマングローブ蟹の養殖で大学の研究室を使用していました。

これで私のHPからの転載は終わりです。カルレスいた時の友人(私より若い)からメールがあり、5月中旬に新型コロナのワクチンを打ったそうです。マニラの友人やソロモンの教え子家族(全員私より若い)も新型コロナのワクチンを打ったそうです。アメリカ在住の友人は新型コロナウイルスに感染したそうですが、7月に家族でブルガリアへ里帰りするとメールが着ました。ちょうどこのころはCDCが日本をレベル4に指定した頃で、ブルガリアを見たら同じくレベル4でした(現在は両国ともレベル3)。その数日後にEUが域外からの観光客受け入れを発表しています。世界ではワクチンの普及と新型コロナの弱毒化で通常の生活が戻りつつあるようです。私も年度内にトンガへ赴任できるでしょうか?
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MAP OF PANAY 20 [フィリピン]

Sta.Barbara
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サンタバーバラ教会
サンタバーバラはスペインに対する革命活動の中心地として歴史の中でその地位を確立しています。1898 年に、自由を渇望した群衆の叫びに向けてフィリピンの旗が掲げられたのはここでした。サンタバーバラ教会は美しいロマネスク様式の建築として知られています。同様に魅力的なのは、教会の右側にある L 字型の修道院で、アンティラン様式で建てられています。
2017年にカルレスからの帰りに、サンタバーバラの郊外にあるイロイロ空港からマニラへ飛び立ちました。バスターミナルも色々郊外に移転しており、当時のカウンターパートが親戚のタクシーで迎えに来てくれました。空港はサンタバーバラの幹線道路からも離れており、すごく不便でした。マンダリアオにあった旧空港の滑走路脇にヤギが繋がれていた長閑な時代が懐かしいです。

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サンタバーバラ教会の中庭
2つの建物の間に魅力的な中庭があります。
このページを書き込んでいて写真をよく見たら、私が写っていました。誰と訪れたか記憶にありません。

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イロイロゴルフ&カントリークラブ
フィリピンで最初に聞かれた「ファー」はサンタバーバラのイロイロゴルフ&カントリークラブのコースで1907年に叫ばれました。ゴルフ愛好家は、自然が作った起伏のある斜面を越えて、ディンプル ボールを打ちました。1950 年代には、より現代的なフェアウェイ デザインが採用されました。
私の身近のフィリピン人でゴルフをしている人はいませんでしたが、現在はどうなのでしょう。暑そうですが、外国人も仕事の合間を見てゴルフをしていそうですね。
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MAP OF PANAY 19 [フィリピン]

Sicogon
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Buaya Beach
パナイ島の北東東端に白い砂浜のある小さな島があります。1200ヘクタールの島は高級リゾート以外に利用できる宿泊施設はりませんが、当時は閉鎖され島民が住んでいました。自転車を抱えている男性はサンフェルナンド高校の校長です。生徒は島の反対にある高校まで芝の滑走路を通って6㎞の砂道を徒歩で通学していました。
この島は多い時には200人のツーリストが宿泊したそうです。夜の海に手を入れると夜光虫が赤紫色の光を発して幻想的でした。フィリピン人の話では台風でコテージ(サンゴも)が壊れていまい、オーナーが金がないので修理できないというのが通説になっていました。ここに駐在していた日本人によると、1986年に三井物産の若王子さん誘拐事件をきっかけに日本の大手旅行会社がツアーを中止にしたことも原因の一つだそうです。2017年にカルレスへ行ったときに、アヤラ財閥がシコゴン島を再開発すると言っていましたがどうなったことでしょう。

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Alipata
バンカ(アウトリガーの小さなボート)を作っています。はげ山が多いシコゴン島は伐採が禁止とか言っていました。ここはサンフェルナンド高校下で、私は食品科学を教えていたとき彼の家に泊まりました。
ここで頂いたイワシのキニラオ(マリネ)が最高に美味しく忘れられません。悲しい話ですが、この島にいた時に阪神淡路大震災が起こり、ラジオジャパンのニュースで毎日1000人づつ増える死亡者に驚愕していました。兵庫県からフィリピンに来ていた協力隊隊員は、日本の家族とずーと連絡が取れなかったそうです。カルレスに戻ったら近所の人たちが心配してくれました。そして3月の地下鉄サリン事件、私は変な宗教団体の仕業だとドイツ人と話していたら、テロリストだろうと言われて目が覚めました。フィリピンにいても平和ボケをしていた私の転換期になりました。
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MAP OF PANAY 18 [フィリピン]

Sebasute
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Aras-asan
JICA専門家の依頼で食品加工の基礎的な講義をしました。彼女らは3ヶ月後に私の任地カルレスを訪れ、ナタデココの作り方を習いました。
当時のアンティケ州の道路は舗装されていなく、苦労してセバステマまで行った記憶があります。日本への輸出などでナタデココには良い思い出がありませんが、日本で見かけなくなるにつれ記憶も薄まっています。
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MAP OF PANAY 17 [フィリピン]

San Joaquin
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サンホアキン墓地
天国の鉄の門は、サンホアキン墓地に魂を休める人々に開かれています。鉄の門は、実際には素朴なドーム型の構造に通じており、おそらくかつては葬儀のミサが行われた礼拝堂だったと思われます。
中央の建物の中は何も置いていなくコウモリの住処になっていました。

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サンホアキン協会
サンホアキン教会の建設の背景にある物語は、別の闘争を明らかにしています。それは、材料を集めることを余儀なくされたり、割り当てが満たされない場合、むち打ちに直面した町の人々のことです。女性や子供でさえ、海岸近くから砂利や砂を運ぶのに慣れていました。苦労の末に美しい教会が建ちましたが、日本軍から逃げるゲリラによって破壊され 煤で黒ずんでいます。
ゲリラは日本軍の駐屯地に使用されるのを避けるために燃やしたのでしょう。おそらく屋根が焼け落ちて、石作りの壁が残ってよかったです。

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サンホアキン協会のレリーフ
サンホアキン教会の黒くなった破風は、1859 年にスペインが北アフリカのテトゥアンの戦いでモロッコ軍に勝利したことを描いたレリーフです。家と徒歩の兵士たちは、闘争の劇的な感情のすべてを身振りで示し、前進します。騎兵と歩兵たちは、闘争の劇的な感情を身振りで示し前進しています。
私は「The Book ILOILO」を読むまでレリーフに刻まれた絵の意味が分かりませんでした。このレリーフからもフィリピンは色々な国から翻弄されたのが分かります。
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MAP OF PANAY 16 [フィリピン]

Pilar
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ピラー高校
この学校はピラーに(1994年頃)設立されてからわずか半年の新しい高校です。竹、ココナッツ材、ココナッツの葉で作った手作りの校舎です。多くの生徒が自分たちで校舎を作ったことを、私はとてもうれしく思います。
21年後にロハスから乗り合いのワンボックスカーでこの道を通っりましたが、家が多くたっており分かりませんでした。今はブロック塀の校舎になっているでしょうね。

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サトウキビ
19世紀半ばまでにパナイ島の土地はほぼすべてサトウキビで覆われていました。今はピラーのように、作物に専念している大規模なプランテーションはごくわずかです。
サトウキビは固く思っていたより甘くありませんでした。でも現地の子供たちはトラックからサトウキビを抜き取って甘い樹液を楽しんでいました。フィリピンのラム酒が懐かしいです。ラムを飲むときはタガイタイと言って一つのコップを回し飲みしてからチェイサーを飲んでいました。私は生水を飲まなかったので、いつもストレートの一気飲みで直ぐに酔っぱらっていました。
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MAP OF PANAY 15 [フィリピン]

Pavia
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パヴィア教会
イロイロ州の進歩的な町は、パナイ島を農産業開発の主要地域として開発することを推進している政府の中心であるパヴィアです。パヴィアは多くのビサヤの大企業が事業を行う拠点となっていますが、歴史的な教会で明らかなように特別な魅力を保持しています。素朴な赤レンガはその薄暗いインテリアに教区民を歓迎する親しみやすい外観の構造をしています。
確かこの辺りで農業協同組合の活動をしていた青年海外協力隊員がいましたが、配属先と反りが合わず任期短縮をしました。
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MAP OF PANAY 14 [フィリピン]

Panay
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パナイ協会
ここはパナイ島のパナイ町です。大きな町でなかったですが、セブに続いてスペインの2番目の植民地っだそうです。教会の中には東南アジアで最大の鐘がありました。

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White buffalo(Pilarと Panayの間)
カピス州(パナイ島北部)は白い水牛(アルビノ)が多い所で有名です。フィリピンの人たちは水牛をカラバオと言い、国を代表する動物になっています。白い水牛の左側の水牛が一般的な色です。
この二頭を同じ構図に入れて写すのに、水牛が言うことを聞いてくれなく苦労しました。


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MAP OF PANAY 13 [フィリピン]

North Gigante Is.
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North Gigante Is.
「Gigante」は日本語で「巨人」を意味します。巨人が島に横たわっているのが分かるでしょうか。1994年時点でのノースギガンテは、15年前のボラカイ島のようです。ボラカイがマーケットツーリズム向けに開発されるにつれ、先駆的なバックパッカーが代替手段としてノースギガンテを選択しました。
初めてノースギガンテに渡った時は、エスタンシアの港で荷物が重すぎて満潮になるまで半日くらい船上で待たされました。積み過ぎた荷物を船から降ろしたりしていたので、手伝おうとしたら「外国人だからしなくていい」と言われました。ホームステイをさせてもらった中学校の先生宅は、以前ピースコーのカップルが住んでいたそうで、良い家に住んでいたんだなと思っていました。調整員によると私のカルレスの部屋は65人ほどいた協力隊員の中で下から2番目と言ってたので無理もないです。
2017年1月に行ったときはCarlesのBancalからGigantesのLangobまで定期便が出ていました。10時に出発して11時30分に着き、料金は75ペソでした。島からの便は14時発、15時30分着なので日帰りも可能でした。次回カルレスへ行くときはノースギガンテまで足を延ばしてみようかな。

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Granada High School
ギガンテスにはノースギガンテとサウスギガンテの2つの島があります。ノースギガンテは5×3㎞の大きさです。グラナダハイスクールでは毎年恒例の学園祭がありました。前列に並んでいるカップルはMr & Missコンテストの参加者です。
私はこのハイスクールでも食品科学の授業をしていました。日本で働いていた会社のスライドを見せたかったので、発電機の有る学園祭の時に再びノースギガンテに渡りました。島の北側に日本製の灯台がありました。島の南側に洞窟があると聞いたので、尖った石灰岩の崖を登ったのですがビーチサンダルに岩が刺さって断念しました。
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MAP OF PANAY 12 [フィリピン]

Miagao
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UP Visaya
フィリピン大学ビサヤ校(ミアガオ)には水産学部があります。イロイロ地域に国の州立大学はの誰もが認める教育の場ビサヤ校があります。
ミアガオへ向かう道はいつも花が咲き盛り、南国の暖かさを感じながらバイクで走っていました。

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ミアガオ教会
イロイロ市から車で1時間の距離にありますが、歴史的建造物の愛好家はミアガオ教会の美しさに感動するだけの価値があります。教会は1787-1797年に建てられましたが、ハロ大聖堂や他のイロイロ教会と同様1948年の地震に襲われました。
私がフィリピンピンへ赴任する前年の1993年に世界遺産になっていたのですね。現地に人々はキリスト教の祈りの場なのか、世界遺産の看板もなかったと思います。私は帰国をしてから世界遺産と知りました。

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教会のレリーフ
砂岩でできた正面の特徴は、ココナッツ、バナナ、パパイヤの木、様式化されたグアバの果実のレリーフが刻まれていることです。
当時は砂岩の色がまばらだったので、修復をしたのでしょう。教会の中はガランとしていてインパクトのあるレリーフを見た後に拍子抜けをした記憶があります。
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