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東欧の旅-シプカ [旅行-ブルガリア]

もう1月も終わりですね。久しぶりにはじめたスキーにハマってしまい書き込みが遅れてしまいました。
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スタラザゴラから車でバラ畑を横切り30分位でシプカ(Shipka)に着きました。友人はこの町に何人かの日本の方々が住んでいるそうです。街の中心街にあるホテル前の看板には日本語のメッセージもありました。友人から日本人を探してみるかと問われたのですが、急に訪問しても迷惑と思い断りました。この地域はバラの香水の特産地で、パリの有名ブランドの香水にブレンドされるそうです。ちなみにバラの香水はソフィア(Sofia)の空港では3倍しました。
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シプカのロシア正教会です。教会の中はクリスマスが終わったばかりなのに何も特別なことはないようでした。正面に向かって右側がロシア正教の聖人で、左側にはブルガリアの名士の絵が描かれているそうです。1878年の露土戦争で亡くなった兵士を弔うために建てたようです。1900年頃に立て始めたのか完成したのか忘れました。僧侶から友人が聞いて英訳してくれるのですが、6名の兵士の骨が・・・とかでトラキアの墓と混同していて何回聞いても理解できませんでした。友人は逆十字を確か2回切っていました。最後は心臓で終わるそうです。カトリックのやり方に慣れている私にとってすごく不自然でした。
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一枚目の看板がある広場からロシア正教会を写した写真です。近くの山頂には露土戦争を記念したモニュメントがあるそうですが、この日はスタラザゴラでもマイナス10℃で寒そうなので行きませんでした。
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先ほどのロシア正教会で友人の友人と待ち合わせて、彼のシプカの別荘へ。友人の友人はバラの谷で有名なカザンラク(Kazanlak)に住んでおり、ブルガリアの女子ジュニアチームがチュニジアに遠征した時に会ったことがありました。1907年に建てられた家を買い内装を新しくしていました。この部分はまだ手を加えていなく、日本の昔と同じような感じで土壁に、写真左の建物は昔の日本のようなボッチャン式のトイレです。子犬の番犬がいたのですが、餌はラードでかわいそうでした。ラードは凍りにくいのかな?
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シプカの近くで一番整備されたトラキア人墓、ゴリャマ・コスマトカへ。入場料は3LVでした。墓の入り口のこの地点で青銅の銅像の頭部部分が発掘されたそうです。これはレプリカですが、目の部分は半貴金属の小石だそうです。カザンラクの博物館にも同じレプリカがありましたが、目が入っていませんでした。ちなみにカザンラクの博物館には黄金のマスクのレプリカもありましたが、ヒビの部分が裂けていません。
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厳寒期でチケットを売っている人も暇らしく、オストルシャの墓を案内してくれました。普通のトラキア人の墓はドーム型なのですが、ここは家型でした。この写真はその墳墓を覆っている建物で中は空調されています。墓室は40tで、屋根は14tのそれぞれ一枚岩でできているそうです。発掘時に中をこじ開けようとして2箇所かけていました。どうやって屋根を乗せたかは不明だそうです。屋根はギリシャのパルテノンのような三角屋根で、軒の装飾は正四面体がつながっておりエジプトの影響を受けたそうです。室内から屋根裏を見ると三段階になっており地獄、現世、天国と分かれているようです。屋根には絵が書かれていますが、ほとんど破壊され、女性の絵だけが色彩豊かに描かれていました。中の写真は貴重だと思い写真を写すのを遠慮しました。イメージだけですみません。
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ここは確かシュシュマネッツの墓です。この場所はこの地域の渓谷を一望できる位置にあり、墓の前は儀式をする場所と見張台だったようです。中にはトラキアの墓には珍しく柱が2本立っています。柱はモルタルでコーティングされ床には馬の歩いた跡と蜀台か何かを置いた跡がありました。
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ここはヘルヴェツィアの墓です。スイス人達によって発掘されたので、ヘルヴェツィアと言うスイスの地名をつけたそうです。墓の前室は女性の膣を模しているそうで、左右対称でなく、屋根の部分の膨らみがずれていました(この墓でなかったかもしれません)。この前のいけにえにされた馬が見つかったそうです。墓室の左側の扉は赤く塗られ日の出を意味し、左側は黒く塗られ日没を意味しているそうです。赤い扉は動きましたが黒の扉はだめでした。墓の正面は南で、冬至の日に墓室の中央まで日が届くように作られた墓もあると、カザンラにある墓に書いてありました。そう墓は小山の南側に埋もれているのです。トラキア人にとって3,7,10が大切な数字で、墓に中は三段構造になっており、壁の石が7段だったかな??と柱の彫刻の線が10本だったかな??でした。

帰国後ちょうど新潟伊勢丹でトラキアの黄金文明展をやっていたので見てきました。黄金のマスクの本物もありました。紀元前5000年頃にブルガリアの黒海沿岸に最古の最古の黄金文明があったそうですが、侵略の繰り返しでどこの民族の文明か不明だそうです。その後ギリシャの影響を受けつつ、紀元前12世紀から4世紀頃までローマの属州になりながらもトラキア文明があったそうです。紹介した墓は紀元前3,4世紀頃に建てられ、1990年代から2000年代に発見されたもので金製品が多く見つかり21世紀の大発見だそうです。でも私がトラキア聞いて最初に記憶にあるのはギュスターヴ・モローのオルフェスの首を運ぶトラキアの娘でした。ギリシャ時代の記録でトラキア人は好戦的で多妻の習慣があり野蛮人と考えられていたようです。トラキア人は政治的に統一されておらず20位の独立種族だったそうで、統一されていればカルタゴのようにローマ時代の歴史にも残ったことでしょう。

黒海編へ続きます。
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