SSブログ

高校生国際協力体験視察の旅7 [フィリピン]

nsh1.jpg
ブラオン小学校の児童たちと

価値ある行き方を N.S(北魚沼郡)

私は思いあがっていた。何かをしてあげることはないかと思っていた。貧しい国の人々を助けてあげたいと思っていた。実際、フィリピンに行って助けられたのは私のほうだあった。
私は今まで、発展途上国の人々の助けになる職に将来つきたいと思っていた。その夢だけが自分の中で唯一自慢できるものであり、唯一自分を好きになれるところだった。とゆうのも、日本での私の生活というものがどうしょうもないものだったからだ。「まあいいや。」と何となく過ぎる毎日。悪いこともいっぱいしてきた。外面的にも、内面的にも、自分を汚しつづけてきた。自分が大切ではなかったのだ。こんな生活だから、唯一の夢さえ、口先だけではないかという自分自身への疑いが生まれていた。自分が分からなかった。今回の旅に参加した理由はこれから自分が進んでいこうとしている道と正面から向かい合い、本当に自分がしたいことなのか、これからも自分の夢としてもちつづけていいのかを考えたかったからだ。しかしその反面、怖い気もしていた。もし、考えた結果、やっぱり口先だけだったという自分に気付いたら、と。この夢をすてるのは、他に何もない当時の私にとってtっとても怖いことだった。楽しみと不安を抱き、私はフィリピンの土地を踏んだ。
フィリピンはすごく自然に迎えてくれた。すごく体になじんだ気がした。強い日差し、ムッとくる空気、個性的に飾られたジープニーが行き来し、果物や洋服などさまざまな露天がのんびりとかまえていた。私の期待通りのにおいだった。フィリピンの景色全てが私に入ってきた。
協力隊員の活動も大変そうだったけどやりがいありそうだった。そして何より、どの隊員も生き生きとしていた。しかしその視察ヶ所の一つ、バコロールで私は大きなショックを受けることとなった。バコロールは、ピナツボ火山の泥流で全てが埋もれてしまった地域である。どこまでも灰色の土地が続いていて、以前そこが住宅地だったとはとてもしんいられなかった。その時、バンバンとバスの外をたたく音が聞こえた。ガラス越しに見下ろした私はいたたまれなくなった。そこには、ダラダラの汚いTシャツを着た10歳くらいの男の子が茶碗を差し出し「MONEY! MONEY!」と叫んでいた。これか、、、と思った。来る前に隊員の方から観光客にお金をねだる子供がたくさんいるが、労働意欲が無くなるのでお金を与えるなと言われていた。私はその子供達と目が合わせられなかった。すごく心の奥が痛かった。労働意欲が無くなると言うのは確かに良くないことだと納得した。しかし、私がそれまでしてきたお金の使い方を考えると、私が持っているよりこの子供達に持たせたほうがよっぽど有意義に使われるのではないだろうか、よっぽど重みのあるお金になるのでないだろうかと、そう思わずにはいられなかった。こうゆう考え方は間違っているのでしょうか。やりきれないうしろめたさを残して、バスは子供達を後にした。今までのお金の使い道が何だかおかしいことに気付いた。
お金だけではない。フィリピンでの一週間で私は自分のしてきた生活を大きく振り返る事ができた。自分は一体何をしていたんだろ、、、と。いろんな価値観が変わった旅だった。この旅で本当に私は助けられた。自分自身を大切にしようと思えた。価値ある人生にしようと思えた。
こう思えた今、私は新しい意味で国際協力に従事させてもらいたいと思っている。以前の、「何かしてあげよう」なんて考えとんでもない。ただ、私の体にすごくなじんだ東南アジアの原点に近い国で、一日一日を充実させて暮したい。あのムッとした空気の中で汗を流して働きたい。うまく言えないけど、あっちの国には日本のような近代化したした国はない「何か」があるような気がする。私を変えてくれた「何か」だ。その「何か」に囲まれて「何か」のために働いてみたいと思う。そしてその「何か」は私に価値ある人生を与えてけれると確信している。まだ漠然トしているが、こんな国際協力が私の新しい夢だ。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

高校生国際協力体験視察の旅6 [フィリピン]

st3.jpg
火山灰で埋まったBACOLOR CENTRAL SCHOOL

視察の旅に参加して M.K(村上市)

「海外旅行行くなら、アメリカかヨーロッパ。」この旅行に参加する前の私なら、そう答えただろう。でも、今なら真っ先に「フィリピン。」と答えるだろう。私が、もう一度フィリピンに行きたいと言う気持ちにさせるのは、きっと、そこで出会った人々がいるからだろう。最初”発展途上国の人”ということでかわいそうとか思って、どう接したらいいか分からなかったけど、話しをしていくうちに、どの人も、私達の周りにいる人々と変わりないと感じた。ステイ先の女の子は、私と同じ16歳の普通の女の子だった。
良い意味でも悪い意味でも日本と違ったのは子供たちだった。私が一番好きになったのは、あの人なつっこさと笑顔です。見ず知らずの私にも見せてくれる笑顔は、とても最高でした。そして、日中、年の差の関係なく仲良く外で遊ぶ光景は、日本ではあまり見られなくなったものだった。
そして、まだ幼いのに、学校に行かず、物を売り歩いたり、トライシクルを運転する子供たち。テレビで見て知ってはいたけど、ショックを受けた。それを見て、たくさんの物に囲まれ欲しいものは手に入れることができ、学校にもちゃんと通わせてもらえる私は幸せなんだなーと実感しました。
あと、物乞いする子供たち。旅行前、お金を催促されたら払うかもと考えていたけれど、スタッフの人に、それが本当のボランティアではないことを教えられた。本当のボランティアのために、自分は何か技術を身につけて、それを、大好きな子供たちに教えていければと思います。
最後に、この旅行への参加を快く許してくれた家族、お世話になったスタッフの皆様、一週間という短い間だったけど一緒に過ごした15人の友達、みんな本当にありがとう。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

高校生国際協力体験視察の旅5 [フィリピン]

st4.jpg
オロンガポで海水浴

第3回新潟県高校生国際協力視察の旅に参加しての感想 N.N(南魚沼郡)

私がこの旅に参加することになったのは、母らかの勧めからだった。私はもともと海外に興味があったから、母が新聞に載っていたこの旅を教えてくれた。参加できることが決まり、友達や親戚などに言ったらみんな「なんでフィリピンなの?」「なんで行きたいの?」「フィリピンは危ないぞ。」などと言われた。でも私は、日本以外の国を見てみたいという気持ちが強かったから、心配よりも楽しみという気持ちのほうが多かった。
実際にフィリピンに着くと、そこには私たちよりも少しだけ色が黒くて、とても明るい人達が暮らしていた。マニラに着いてJICAの事務所に行って現地の協力隊員の活動状況などを聞いて、その後協力隊の調整委員の人たちとの夕食会があった。その時出てきたかき氷のようなものの中にとうもろこしが入っているデザートを食べた。私は日本では、まずそんな食べ方はしないから「なんかへん!」と言った。そしたら調整員の人が「たまたまこの国ではこうゆう食べ方をして、たまたま日本ではしないだけなんだから、せっかくフィリピンに来たんだから、日本はこうするとか、思わずにフィリピンのやり方を見てみれば。」と言ってくれた。その時のその言葉のおかげで、その後のホームステイは私にとって、よいものとなった。
私がホームステイした家には、いつも子供たちがたくさんいた。ピナツボ山の火山灰によって家をなくした人たちなのに、そんな暗さはぜんぜんなく、とても明るい人たちだった。みんな日本に興味を持っていたので、日本のことを教えたり、フィリピンのことを教えてもらったり、歌ったり踊ったりしてすごく仲良くなった。だからその分、別れるのはとても辛かった。最後まで見送りに来てくれて、いつかまた帰ってくると約束した。その後もピナツボ山の被災地での日本の援助の様子などを見学して、フィリピンと日本のつながりを知った。
私がこの旅を通じて感じたことは、フィリピンの人たちの心の豊かさだと思う。エアコン付きの大きなバスで行動する私たちに、にっこり笑って手を振ってくれた。もし私が逆の立場だったら「なんだよイイ車乗っちゃって、ムカツク!」と思ってしまうと思う。日本はフィリピンに比べると、お金もあるし物もある。でもそれが本当に”豊か”と言えるのだろうか。私はこの旅で物質的に豊かな日本よりも、物がなくても心が豊かなフィリピンの方がずっと豊かな国だと強く感じた。フィリピンの人は日本に興味をもって日本に行ってみたいと言ったり、自分の家が狭いとか言っていたけど私は「あなたの国の方がずっと豊かでステキな国ですよ」と言いたい。そして物質的な面だけで豊かになり、心の豊かさに欠け、少し急ぎすぎた日本を変えていけるのは私たちの世代なのかもしれないと思った。
最後に私にこんなすばらしい体験をさせてくれたOG、OBのみなさんや友達、家族そしてフィリピンに感謝している。
Maraming salamat !
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

高校生国際協力体験視察の旅4 [フィリピン]

st2.jpg
火山灰流の説明を受ける高校生

本当の豊かさ N.S(新発田市)  

ハロハロでサリサリの国。ハロハロとはタガログ語で「ごちゃごちゃ」、サリサリは「なんでもかんでも」という意味です。子の言葉は行く前に知った。いったい何のことを指しているのか疑問をかかえつつフィリピンへと向かった。バスに乗り、街中に出るとまさに、その通りだった。道はジープニーやバス、バイシクルで大混乱。隣からは我先にと、車がつっこんでくる。道の真ん中でジープニーから人が出たり、入ったり。私から見ればいつ事故が起きてもおかしくない状態だった。しかしそれは、現地のひとにとっては、限りなく普通の毎日なのだろう。
その普通の毎日というのをホームステイで体験したわけだけどいろんなことを感じた。言葉、生活、文化mの違いにとまどいながらも楽しく過ごすことができた。また私はそこで「フィリピンタイム」という時を経験した。それはとても不思議な感じがした。フィリピンに始めて来たわけなのだが、前からここに住んでいたような感覚。 別に何かをしなければならないわけではなくただボーとしていた。けれどそれが妙に心地よい。その時の自分は、今までいろんな物に追われ、いつも心がはりつめていたことに気付いた。ほんの数時間なのだろうが、何ものにも追われない時は私のいろんな疲れをいやし、心に余裕をくれた。とても貴重な時を過ごせたと思う。
このことにおいていかに日本での生活が多忙かよくわかった。いつも何かに追われ、自分自身を失い、大切なものにを忘れていることにも気付かずに過ごしている。フィリピンにいると日本の悪い所や欠けている部分がよくわかる。
フィリピンの子供達は恥ずかしがり屋なんだけど、とても人なつっこい。そしてなによりも笑顔がとってもいい。こっちも思わず笑顔になってしまう。笑顔からあふれでるパワーは私を、幸せにしてくれる。たとえ文化や言葉が違っても、こんなに通じ合うことができる。この喜びは何ものにも変えがたいものだ。とてもうれしかった。フィリピンと日本、この差は大きい。豊かさでいえばみんな日本のほうが豊かだと思うかもしれない。私もそう思っていた。確かに失業率は高く出稼ぎ労働者も多い。スラム街もあり、危険な生活をしている人達もいる。しかし、日本のようにどんなに物があってもどんなにお金があっても、フィリピンの豊かさに勝るものはない、と私は思う。それは、家族を思いやる気持ちやこころの広さや温かさや優しさである。心が豊かだと笑顔も多くなる。そんな笑顔を絶やさないフィリピン人が私は大好きだ。本当に出会えてよかった。また、今回の旅行でお世話になったスタッフのみなさん、一週間共にすごしたみんな本当にありがとう。いつかまたみんなでフィリピンにいきたい。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

高校生国際協力体験視察の旅3 [フィリピン]

st1.jpg
ブラオン小学校の児童たちと

僕のフィリピン体験 Y.I(新潟市)

僕が「第三回新潟県高校生国際協力体験視察の旅」のメンバーの一員としてフィリピンを訪れたのは、1998年の3月のことだった。1週間という短い期間ではあったが、僕は非常に有意義で、濃密な時間をすごせた、と思う。ピナツボ火山が噴火したことで生じた、莫大な量の土石流、その土石流の流れを止めて制御するためのメガダイク。計画的な家畜生産のために、農村で行われている家畜の人工授精。それらの、JICAやJOCVの方の、現地での活動の視察や、わずかな二日間ではあったが、直接、交流することができたホームステイ。思い返してみただけでも、日本では決してすることができない、貴重な体験であったように思える。
特に、ホームステイは自らの力で会話を行い、理解することに努められたし、ホームステイを通じて、ホストファミリーや近所の人達とも英語で交流をおこなえたからである。
もちろん滞在中に、日本とフィリピンとの生活や環境の違いに驚いたことは何度もあった。ポンプを使って水を汲んだり、日常茶飯事となっている停電など、読み上げると、きりがないほどである。
だが、その中でも一番驚かされ、また、はっとさせられたことがあった。それは、フィリピンの小学校を訪れたときのこと、彼らと話したり、遊んだりする機会を得られたのだが、とにかく笑顔がすごい。日本の子供たちと違って、眩しいほどであった。日本でも話には聞いていたのだが、実際に彼らに会ってみると、それが実感できた。元気そうな子も、一見おとなしそうに見える子も、皆一様に楽しそうに笑うのである。
僕は、最初、子供だけがよく笑う、と思っていた。それほど、小学校での体験は強烈に、僕の心に残っていた。
しかし、それは違う。今、思い返してみると、子供だけでなく、大人も楽しそうに笑っていることが多かった気がする。ホームステイのときを例にとっても、ホームステイの母親や、近所の大人たちでなく、友人の友人の家族や、町ですれ違った知らない人まで、親しげに、声をかけてくれたのである。
最初は知らない人に声をかけられて、「日本人らしく」戸惑っていたが、フィリピンの習慣に慣れてくると、知らない人とも笑顔で挨拶を交わせるようになった。多くの事に、最初は戸惑い、驚いた。しかし旅も終わりに近づいてくると、「日本にかえりたくないな」という念が強まってきた。フィリピンの人達の笑顔に、僕は知らず知らずのうちに、魅せられていたのかもしれない。
最後になったが、僕はこのフィリピンでの体験を、忘れず、活用していきたいと思う。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

高校生国際協力体験視察の旅2 [フィリピン]

訪問日程と研修内容 団長
開発途上国は抱える問題が日本と違いすぎるために理解されにくかったり、悲惨な面だけが強調されて入ることが少なくありません。本当の国際交流はお互いの国を正しく理解することから始まるのでないでしょうか。高校生たちには、自分の目で見て感じたことを家族や一人でも多くの友達に伝えて欲しいと思います。
trav_l1.gif
’98.3.19(木)
16:00 壮行会(ホテルニューオータニ長岡)新潟県青年海外協力協会会長の挨拶と参加者の紹介。

’98.3.20(金)
 1:00 長岡よりJRを利用して成田空港に向かう
 9:45 成田発 JL741
13:25 マニラ着
15:00 国際協力事業団(JICA)フィリピン事務所表敬訪問 G所長とS調整員よりフィリピンにおけるJICAの活動について説明を聞く。日本のODA予算は年間500億円くらいで、青年海外協力隊(JOCV)は農林水産、教育文化などの分野で約60名が活動している。
18:00 JICA職員、JOCV隊員と夕食会(レストランカマヤン)
21:00 ヘリテージホテル泊

’98.3.21(土)
 7:30 マニラよりバスでパンパンが州に移動
10:00 サンフェルナンド市役所表敬訪問 R.B.A市長よりパンパンが州について説明を聞き、ピナツボ火山の火山灰でつくった記念品をいただく。

12:00 昼食(PARATY LAND)
14:00 ホームステイ先に移動

’98.3.22(日)
終日ホームステイー家族と行動
ブラオン再定住地はピナツボ火山被害者のために建設されたニュータウンで幅6メートル道路の両側が1世帯あたり100平方メートルくらいに区画されている。家はブロック積の平屋で手押し式のポンプが設置されており、電気もあり、緑もかなり多い。
(M.K)
言葉はあまりわからなかったけど、ホームステイは楽しくて日本に帰りたくなかった。
(E.I)
みんなすごく優しい。気軽に声をかけてきてくれてすごくうれしかった。私の見る限り日本人よりフィリピン人のほうが幸せそう。
(M.K)
ものすごく楽しかった。人々の温かさ、すべてわすれることのできないものばかりもらった。異文化や異国を感じることができてうれしかった。
(J.M)

’98.3.23(月)
 8:00 サン・ビンセンテ・パイロットスクール訪問 日本の中学と高校に相当し、生徒数約1,000名。授業見学では家族計画について話しており、フィリピンでも最近は子どもの数が減っているとのこと。
 9:00 ブラオン小学校にて交流会 歓迎の挨拶に続き、小学校と先生による歌とダンス6曲が披露された。日本の高校生は「夜空の向こう」「WAになっておどろう」を合唱した。記念植樹としてランカ(ジャックフルーツ)とパパイヤの苗木10本を寄贈した。
12:00 昼食(JOLLYBEE)
16:00 NGO活動視察(サンフェルナンド市内)長岡蒼紫ライオンズクラブの援助により保母研修所が立てられた。(実行委員長配属先)
17:00 夕食(バーベキュースタイルレストラン
19:00 デイズホテル泊

’98.3.24(火)
 7:30 JICA N専門家活動視察 1991年6月に大噴火を起こしたピナツボ火山周辺では雨期になると火山灰が泥流となって堆積し、その厚さは8メートルにも達している。泥流の被害をおさえるために日本、アメリカ、スイスなどが分担して砂防計画を進めており、日本はサコビヤバンバン川流域を担当し、また、パシッグポトレロ川では泥流を制御するためにメガダイクと呼ばれる大堤防が建設されていた。
14:00 JOCV S隊員活動視察 バターン州立獣医事務所に配属されている家畜人口受精の指導を行っている。人口受精により生まれた雑種カラバオ(水牛)は従来のカラバオより育ちが良くミルクもたくさん出るので普及に努めている。
17:00 オロンガポシティで海水浴 夕食(中華レストラン)バロット(孵化しかけの卵)も食べる。
20:00 デイズホテル泊

’98.3.25(水)
 8:00 パンパンが州よりマニラに移動
 9:30 サンチャゴ要塞見学 ここはスペイン風建物のリサーチ記念館があり、フィリピン独立運動の指導者であった国民的英雄ホセ・リサールに関する文献が展示されている。
10:30 リサール公園で記念撮影
13:00 マカティ・コマーシャル・センター見学 フィリピンの高級デパート「ランドマーク」などで食事、買物。
18:00 夕食(K JICA次長宅にて)豊栄市に自動車整備技術研修にきていたL.G.P氏も参加。
21:00 ヘリテージホテル泊

’98.3.26(木)
 9:00 マニラ発 JL746
13:55 成田着
16:30 東京駅にて解散式
17:00 東京より新幹線で帰路新潟へ

’98.4.19(日)
反省会
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

高校生国際協力体験視察の旅1 [フィリピン]

'98年3月(第3回)、新潟県内の15名の高校生がフィリピン(マニラ・ピナツボ火山周辺)へ行った。掲載を了解してくれた人達の感動の報告書と写真を掲載します。

sisatu01.jpg
'01年8月、第1回~4回同窓会、先に帰った人ごめんなさい。

sisatu07.JPG
'18年5月、彼らは私が引率した時と同じ年頃になりました。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

両親への手紙16 [フィリピン]

image7.jpg

’95.4.4
前略、5月27日(日)7年忌とのことですが、5月27・28日と私はフィリピン人の友人が東京で1泊しそれからカナダへ行くので出向かえに上京します。新潟へは面接と健康診断が終わってから帰りますので、4月26・27日までには帰れると思います。それ以外の予定は入っていないので、できれば変更願います。早々
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

両親への手紙15 [フィリピン]

image13.jpg

’95.2.26
前略、PADIのライセンスカードは昨年の12月に取得したものです。そのまま保管しておいて下さい。ロンドン・パリは一人で行きます。フィリピンよりは安全なので心配は不要です。1月2月と島の中学校で食品科学の授業をしていました。この写真はその時教育委員会の人・先生・生徒と撮ったものです。10年前までは日本人も来た観光の島だったのですが、三井物産の若王子さん誘拐事件から客は無くなったそうです。では。早々
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

両親への手紙14 [フィリピン]

image9.jpg

’94.12.15
新年あけましておめでとうございます。任期もあと3ヶ月となりました。その後帰路変更でパリとロンドンへ行き新潟へはゴールデンウィーク前に帰ります。餞別をくれた人の名前を送ってください。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感