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フィリピンのこと1 [フィリピン]

協力隊時代暇の投稿記事や、帰国後の雑誌の記事や報告書。
私が行った国際協力とは

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シコゴン島へ行くバンカ

「水産界」水産総合月刊誌から
”夢の続きが見たいから・・・フィリピンでの2年間”

・フィリピンの社会状況
フィリピンの首都マニラから飛行機で1時間弱、パナイ島の州都イロイロ市に着く。そこから土ぼこりをあびながらバスで3時間半の道程でパナイ島北東端に私の赴任地カルレスがある。人口構成は若者が町から出ていくので、日本の過疎化現象とよく似ていて若者が少ない。電気は30%の普及率、ただし停電は多く電気料はマニラの2倍以上。上水道はなし、一部の地域は井戸もなく子供たちが水汲に行かなければならない。電話は15kmのとなりの町でオペレーターを通して利用できる。使用言語はイロンゴ語、公用語に近いタガログ語を話す人は多いが、第二公用語の英語を理解する人は少ない。ハイスクール(中学校レベル程度)が本島に2校、離島に2校あり、卒業率は65%くらいである。このような状況なので、産業は漁業と農業が主なものである。

・NGOの問題点
私は新潟の食品会社から青年海外協力隊水産物加工隊員として会社を休職して参加した。平成5年5月から平成7年4月まで、この任地で生活し協力活動をした。配属先はハイスクールの校長先生が運営している、1988年に設立したCREAD(地方教育開発センター)である。ここの活動は漁民と農民の生活向上をテーマにしている。協力隊は私が始めてだった。上司の要請でアメリカンピースコー(アメリカ平和部隊)が離島のハイスクールで先生をしていたり、イギリスのVSOを要請中だったりしていた。主な予算は配属先が作成したプロジェクトを外国政府に申請し援助してもらう。最初10人位いたスタッフも私の任期後半は、2人に減ってしまった。きちんとしたオフィスもなく、活動も漁民や農民に貸付けたローンの集金だけなので当然だが。この時期私の配属先と同様フィリピン各地にある新興のNGOは色な問題を抱え運営がうまくいかないところが多かった。

・協力隊の役目とは
着任してまもなく、上司からフィリピンで一般的なイワシのトマト煮缶詰を作る工場を要請された。協力隊は金使いの良いボランティアと思われている。私は即座に「できない。」と答えた。なぜなら、漁民のことをよく考えず自分たちが満足するだけなら建てられるだろう。しかし、漁期・漁場・漁獲量が不安定な沿岸漁業では、計画生産が難しく能率的な加工設備に投資できない。それに、マニラやダバオ近郊大工場で作られるブランド品イワシ缶詰との品質競争をしなければならない。原料のイワシの80%や、空缶のほとんどが日本から輸入してきた物である。このような状況から判断し、漁民たちの生活向上のための収入手段として無理があり、家内生産から始めるのが安全と考えた。また、私の協力活動は技術移転以前に、なにも準備されていない配属先で水産物加工を手段とした村落開発がテーマとなった。協力隊は技術力の高いボランティアとして評価されているが、私が水産加工隊員としてこの配属先に来たのは時期が早かったのでないかと思った。

・ボランティアは信頼が不可欠
バイクが貸与されるまでの5ヶ月間、地域住民の生活水準を把握するため任地を歩き理解に努めたり、市場調査のためイロイロ市のスーパーマーケットや市場・近隣の市場を巡回し物品の種類や品質・在庫量などを観察した。私はまだ十分に言葉が通じず地域住民とコミュニケーションをとることができず同行しているだけだったが、イロイロ市にあるNGOと配属先との共同で漁業協同組合作りの説明会を開いたりした。漁民たちは協同組合の必要性を理解しているが、お金に関する信頼関係となると外国人ボランティアだけでは難しい問題があるようだ。そのうちバイクが貸与されたので本島の14のバランガイ(部落)をデモ巡回した。私は漁民や農民でもできるよう小魚類の利用を目的として、製法が簡単で小規模の生産に向き機械設備を必要としなくても出来る又、ある程度の貯蔵に耐えられ試作の段階で地域住民の嗜好に合ったものを考えた末、佃煮としょう油干しを選んだ。器具はフライパン・コップ・スプーンと包丁の代りのナイフ、熱源はヤシの髄か実。原料に使う魚やエビは私が毎日市場へ買いに行くことにした。これらの費用は結局、私の生活費から出すことになり、随分苦労はしたがそれに見合うだけの彼らの喜びを得ることが出来た。
上司は契約書も作っていないナタデココの輸出に失敗し「日本人が嫌い」と言ったので、このままでは友好的な協力活動が出来ないと判断し配属先の変更を希望した。しかし上司から留意を求められ、私はWorking and Financial Planを新しく作り直すこと、配属先がきちんと機能することを条件に同意した。これには彼女のプライドもあった。その後、3ヶ月過ぎても事態は変わらず任期もあと6ヶ月となったので、私一人でも活動できるハイスクールで簡単な食品科学を教える計画をし、上司からは教育委員会に許可だけとってもらった。講義は基礎科学、食品化学、食品加工実習、原価試算とスライド上映をした。私はなぜ日本が戦後から復興し農業国から工業国になれたのか。その答えの一つとして「同じ品質のものを大量生産したこと」を重点にして授業をした。

・”ありがとう”を一言
最後に多くの人々に感謝しなければならない。現地の人達の陽気な支えがあったからこそ2年間過ごせた。たとえば上司のお手伝いのリェナはいつもなにげなく助けてくれた。パン屋のタシオはパンやバナナを食べていた私に「ごはんを食べないと力がでない」と言ってよく差し入れをしてくれた。セザールは上司に「50年ぶりの日本人を粗末にするな」と口癖だった。そしてJICA(国際協力事業団)専門家の方々の応援。現職参加を許可してくれた会社の上司。日本へ一回も電話せず、心配させた両親。本当にありがとう。


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