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フィリピンのこと8 [フィリピン]

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右の2人は10年前に比べて、大きくなりすぎました。クリック⇒10年前の彼女達
 
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ホームステイをしたセザールの家族

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バイクで案内をしてくれたセマ

「10年ぶりのCarles」2005年4月29日から5月1日
もうこの時からすでに2年も過ぎたが、記憶をたどって書き込んでみよう。

「10年過ぎたらまた帰ってくる」と約束をしたのを守り、Carlesへの里帰りを計画した。帰国してから毎年クリスマスカードを私がいた配属先へ送っていたが返事が来ないかった。2004年のクリスマスは隣の家のセザールとセマ親子にもクリスマスカードを送くり、私が2005年の4月末にCalresへ行くと連絡をしたら、彼らから待っていると返事が来た。

新しくなったマニラの空港で少し迷いながら国内線に乗り継ぐ。イロイロヘ行く途中でBoracay上空を飛ぶか期待したが、今回は期待はずれだった
イロイロ市の空港脇にはSMマートの建物があった。以前は滑走路の脇にヤギがつながれておりのどかな空港だったのに、すでに10年の時の流れを感じた。

空港ではセマが迎えに来てくれた。セマは私の上司だった中学校の校長に連絡が取れないと言っている。上司は数年前に日本へ研修に言ったそうだ。 (クリック⇒まあ、色々あったので)。空港の近くのCarlesから来た人のシーフードレストランでビールと軽い食事を取って、いざCarlesへ。
タクシーで行こうとしたら、ドライバー付のレンタカーを用意してくれてた。料金は2500ペソで6,000円位。10年前は乗った事は無いが料金は確か同じ、日本円だと11,000円なので安くなっている。

ドライバーの顔は知らなかったが、ナビの顔は見た事がある。話をすると彼らはCarlesの出身だった。ナビは私の愛車DT50が泥沼に抜かって動けなくなった時に、助けてくれた中学生だった。Carlesへ向かう景色は暗くなったので、町並みが変わったかはわからない。しかし、道が凸凹で悪い (クリック⇒以前の話+DT50)。10年前は2時間半位でcarlesへ行けた。今回は夜道だったからかもしれないが、3時間半かかった。セマの手紙に書いてあった街灯が町を照らしていた。

私の配属先のオフィス(と言っても普通の家)の隣の、セザール宅にホームステー。セザールはセマの父親。70歳位になったと思うが、糖尿病のためか目が白濁しており年をとったと感じた。セマの妹(元上司の秘書)や姪にも会う。その後、セマの友人宅で夕食を取り、セザール宅で扇風機の風を感じながら蚊帳の中で寝る。ゴールデンウィークの頃はフィリピンが一番暑い時だ。協力隊の時は扇風機が無かったので汗だくで寝ていたのを思い出す。もっとも、週の半分以上は停電だったけど・・・。

朝早く目が覚め、裏の海へ行こうとしたが行けない。以前はお世話になったパン屋があったのだが、離島に引っ越したと言う。私が住んでいた部屋も建て替えられ、今は副校長(現校長)だった人が住んでいる。自由に行けた海も、ドアと鍵が付き行けない。隣の家に行くにも柵が張られ行き来ができない。この10年で安全に対する意識向上ではないと思う、所有権の意識が向上したのだ。どちらにしても少し寂しい。鍵は懐かしい顔、副校長のお手伝い(男)が開けてくれた。浜辺のあった私のオフィスはなくなっていた。バンカ(小船)も少ない。サンゴの砂があった浜辺に向かって北へ進むが、岩だけで砂が無い!季節的な理由(6月が最大満潮)かもしれないが、私がいた時は僅かに白いサンゴのビーチがあった。ダイナマイトフィシング(爆破のショックで魚を気絶させて獲る)が無くなり、サンゴが破壊されなくなったのならいいのだが。

午前中ははCarlesでできたリーゾト?や顔なじみの中学校の先生宅、上司のスタッフ宅を回って挨拶をする。変わった人や変わらない人や、男は変わらないかな。岬の反対側では紫色のウミウシの養殖をしていた。観賞用に売れるそうだ。新潟のダイブビングショップのオーナーに話したら、餌は何と聞かれたが調べていなかった。岬の先(Punta)に小さい水産加工所ができていた。カニを加工しているらしいが、私を知っている人もい無そうなので中は見せてもらわなかった。
お昼はセザールたちと、公務員退職者の会?へ。家でのパーティなのだが、甘いデザートが多く少しがっかり。子供がアメリカから帰省していた。
その後セマのレストランへ。店の名前は「色黒」て現地語(スペイン語?)の意味=セマのこと。彼女は中学校の体育の先生だったけど、何年か前に香港へお手伝いさんの出稼ぎをし料理を覚えたらしい。店はCarlesの一等地。バレーボールのコートが二つに増え、退職教職員の寄付でできた小さい図書館があった。図書館は鍵が掛かっていたけど・・・。マーケットでは私を覚えていた人もいたが、若い人が多く私が覚えている顔は無かった。夕方、彼女の手下(昔の生徒)とレストランで待ち合わせて、近くのバランガイ(部落)でやっているフィエスタに行く。ここで初めて分かったことがある。顔見知りのナビを含めて数人の中学生が、私のボディガードだったのだ。その他に、私の友人だった警察署長のボディガードもいた。確かにこの町で危険な目や盗難にあったことは無かった。当然、ビールや鳥のレチョン(丸焼き)をご馳走する。今晩、セマはディスコ大会の審査員だったのだ。バクラ(オカマ)の兄さんも審査員で、私の名前を覚えていた。彼も40歳くらいで以前よりお腹が出たけど、まだダンスを教えているのだ。こう言うとこは私がフィリピンを好きなところかな。

翌朝、バスでIloiloへ向かう。あいにく曇り空らしく バスを待っている間は星が良く見えなかった。今回は、また戻ってくると言わなかった。私のエゴだが、良き思い出をこれ以上壊したくなかったのである。でも、今回行けなかった離島に行ってみたい。変わっていないことを期待して・・・。
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