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フィリピンのこと9 [フィリピン]

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Bancalで売っていた干物

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セマの娘と親戚

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オフィスステイしていた時の近所の家族

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魚を売っているビクトリアの兄弟

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ビクトリアの家族

「21年後のCarles」
2017年1月6日から1月12日

前回に続き2年以上も過ぎてしまった。古いソフトを使っているのでHPのUPは気合が必要だ。

今回の話は2013年11月にあった台風30号(アジア名:Haiyan、フィリピン名:Yolanda)がCarlesを直撃したので、セマに連絡を入れたのが始まり。彼女の携帯電話へは1週間後に繋がった。離島の住民が7名位亡くなったようだが心配はいらないと言っていた。2015年はフィジーにいることが決まっていたので、2016年にCarlesに行くかもと伝えた。そして彼女は「どうして私の携帯番号を知っているの?」と聞いたので、「8年前にCarlesヘ行った時に教えてもらった」と伝えた。

モニターの付いていないフィリピン航空機で暇にしながらマニラへ。空港ではフィジーのツナ工場で働いているロケが迎えに来てくれた。フィジーにいた時から、彼のクリスマス休暇に合わせたフィリピンを訪問を約束していた。マニラの市内に出るのは、新潟の高校生を引率した以来なので19年ぶり。協力隊のドミトリーの近くにあったマンダリンホテルがなくなっていた。Makatiのグリーンベルトは池以外に当時の面影はない。多くの日本食レストランができていて、日本食も食べ放題のレストランでロケの両親と食事をした。ロケの奥さんはZamboangaに住んでいるので、治安が良くなれば行ってみたい。

マニラからパナイ島へはKalibo経由で行くことにした。理由は新潟県出身の協力隊員2名がKalibo近郊で活動していたので。新しいKaliboの空港はBorakayの玄関口なので混んでいた。私が隊員の時はBolakayのオフシーズンがあったが、その後水質汚染が問題になるまで通年営業をしていたのね。翌朝、協力隊員の配属先を訪問してから、Roxas、Balasan経由でCarlesヘ。協力隊時代に一番近所の隊員がホームステイしていたMambusaoの家族が私のHPを見て連絡をくれたが、今はCebu在住なので美味しいバッチョイを食べるのをあきらめた。Roxasでミニバスの乗り継ぎは待ち時間が少なくて助かったが、Balasanの街並みが変わっておりCarles行のジプニー乗り場を聞きまくっていた。

BalasanからCarlesへの道は赤土の道から舗装になったので快適。私が住んでいたオフィスの前で降りて中に入る。ご婦人たちが集まっていて様子が変わっていたが、セマの兄(ボーイ)の妻スーザンが直ぐに対応してくれた。セマは教会の裏に住んでいるとのことで、ボーイがバイクで送ってくれた。彼の両親は他界していたが、サウジアラビアのでアメ車を打っている娘のシンシンとは滞在中にスカイプで話した。長女のケンケンは香港で子守をしているそうだ。送り先は私の上司(中学校の校長)のセキュリティガードをしていた家で、懐かしい顔と再会した。セマはその裏に土地を借りて住んでおり、ニッパヤシと竹でできている懐かしい家(今はブロックが多い)に住んいた。質素な暮らしの理由は娘を授かったからかな。セマはフルタイムで中学校の授業をしていない。主人はセマが作った惣菜を中学校の前で売って生活費を得ているようである。

暗くなるまで時間があったので、街中を散策した。広場には魚のモニュメンと屋根付きになったバスケットコートとマーケットができていた。マーケットで魚を見ていたら「Gaki」と声をかけられた。 なんとカウンターパートだったビクトリアの妹弟たちが魚を売っていたのである。妹の顔は昔の面影がある。他の妹弟は当時まだ小学生になっていなかったが、私のことを覚えていた。その後、警察署の裏を遠回りして海岸線を歩いていたら、また声をかけられた。そこはちょうど隊員時代に井戸を使わせてもらった、ご近所の裏庭だった。井戸は電動ポンプがついていたが壊れていて手でくみ上げていた。当時は手動ポンプだったので、今のほうが大変。夕食はセマからココナッツオイルの香りがするトルタンタロン(茄子のオムレツ)を作ってもらい、満足をして寝た。

翌日はセマからバイクを借りてCarlesを周った。配属先の同僚だったミラの主人と偶然会って新しい家へ行った。10年前に訪れた時はミラがいなかったのだが、息子から私が訪れた話を聞いたそうだ(私は言われるまで忘れていたけど)。二人の息子は船員とブラジルで働いているとのこと。ミラの家は小高い所にあるので、台風のときは近所の家が吹きとばされたそうだ。海側のビクトリアの実家も吹き飛ばされ、木造になったと言っていた。さらに中学校に顔をだしてセマの妹のインダイや先生たちに挨拶。そして岬の先端、Puntaまで行ったが、10年前にできていた水産加工場は廃墟になっていた。台風からの復興で新しい家が目立ち、地形も変わっていた。
今度はBancal方面へ、漁港は埠頭や製氷保管所ができていた。港からは10時発でNoth GiganteのLangob(帰路は14時発)まで75ペソで船が出ており、リゾートで一泊しなくても2時間半滞在して日帰りができる。次回行ってみようかな。港では離島で作った品質の良さそうな魚の干物が売られていた。観光案内所のかわいい子や干物売りの子は聞きやすい英語を話していた。そしてPoblacionにいた知恵おくれの少女(現在35歳位)が、港で元気そうに物貰いをしていたのでほっこりした。さらに奥へ進んでウミウシのエサは何かと10年前にあった養殖場を探したが、なくなっていたので残念だった。
セマ家に戻ったら、セキュリーティーガードの奥さんの誕生日パーティの準備をしていた。中学校の校長や教頭先生も呼んでサンミゲルビールやラム酒を飲んで、楽しい夜を過ごした。

翌朝、バスでIloiloへ向かう。新しいバスターミルはJaroの手前に、空港もSta. Barbaraに移転していたので心配だったが、ビクトリアが迎えに来てくれた。彼女は空港の近くに住んでいて、ケーキ作りをして収入を得ているそうである。旦那は溶接工だったかな、娘は中学校の先生で家族にも会えてよかった。
マニラに戻って、タガログ語の先生をしているベスと19年ぶりに会った。前回は高校生の引率で挨拶をしただけなので、食事をしたのは協力隊後初めて。私の同期隊員と交流が続いており、その伝手で会った。今は現役の協力隊員から色々相談を受けているそうだ。それにしても夜のグリーンベルトは賑やかだった。
   
帰路の日は安倍首相のマニラ訪問と重なっていた。でも安倍首相の到着を気にしていた人は、同じターミナルで私以外にいなかった。日の丸の付いた特別機はターミナルに接続せず、タラップから降りる準備をしていた。
一週間ぶりの自宅は雪で覆われていたので、南国の温かさが恋しかった。今回の旅は世代の移り変わりを痛感した。フィエスタでダンスの審査員をしていたバクラ(オカマ)のことをセマに聞いたが、彼女は話したがらなかった。ドゥテルテ大統領の取り締まりにあったのではと、私は想像している。当時の幼子たちは海外でえ仕事をしていたり地元に残っていたりで、今後の活躍が楽しみである。また、10年後に幸せそうな顔を見に行きたくなった。
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