SSブログ

フィリピンのこと7 [フィリピン]

students.jpg
Cawayan High Scool(本島)の生徒たちと

「H14年度青年海外協力隊活動体験集」から
”…ってな経緯で先生をしていました”

皆様お元気ですか?先日、FM Portに出演したと私のホームページの掲示板に書き込みしたら、東京在住のOGから「ラジオ出演したんですか?それにしてもなんで今ごろ(笑い)お声がかかったんでしょうね。」と質問がありました。私は「新潟で協力隊の試験を受けても新潟出身の隊員は2/3ですし、新しい帰国隊員も仕事が無いのかほとんどどこかへ行きます。」と答えたら、新潟出身のOBが「コメントは、全部私に当てはまってます。」と返事があり納得してもらいました。確かに帰国したばかりの隊員には魅力的な仕事は少ないでしょう。教員の現職参加は改善されてきたようですが、新潟県や各企業にももっと理解がほしいですね。国際経験豊かな人材が流出しています。

さて、ちょうど大学の教職課程をとる学年から、私の専攻は授業数が多いということで教職課程が取れなくなってしまいました。教師になるつもりはなくても教育実習を一度してみたかったのですが、協力隊に行きチャンスがめぐってきました。
私は卒業して8年間、新潟の食品会社で働いていましたが有給休職をして、かねてから希望していた青年海外協力隊に水産物加工隊員として参加できました。フィリピンの首都マニラから飛行機で1時間弱、パナイ島の州都イロイロ市に着きます。そこから土ほこりをあびながらバスで3 時間半の道程でパナイ島の北東端に私の赴任地カルレスがあります。最初の夜は犬、ニワトリや豚の鳴声と波の音の彼方から聞こえるダイナマイト・フィッシングの炸裂音でひどい所に来たと心細い思いをしました。私は第二次世界大戦依頼50 年ぶりの日本人在住者で、歓迎してくれる人がほとんどですが残酷なことをした日本軍の話をしてくれる老人もいました。
私のフィリピン人の上司は当時日本で流行っていたナタデココの輸出に失敗し「日本人が嫌い」と言ったので、このままでは友好的な協力活動が出来ないと判断し配属先の変更を希望しました。しかし上司から留意を求められ、私はWorking and Financial plan を新しく作り直すこと、配属先がきちんと機能することを条件に同意しました。その後、3 ヶ月過ぎても事態は変わらず任期もあと6ヶ月となったので、私一人でも活動できる地元の4校のハイスクール(内離島が2校)で簡単な食品科学を教える計画をし、上司からは教育委員会に許可だけとってもらいました。講義は基礎科学、食品化学、食品加工実習、原価試算とスライド上映をしました。私はなぜ日本が戦後から復興し農業国から工業国になれたのか。その答えの一つとして「同じ品質のものを大量生産したこと」を重点に授業をしました。電気の無い離島では文化祭のディスコ・パーティーで使用する発電機を借りてスライドショウをしたり…と書くと難しそうですが天秤秤の使い方や温泉たまごをつくったり、光合成の実験などをして遊んでいました。また、世界中の協力隊員から来た絵葉書や任国外旅行に行った時の写真を見せたりして、私にとっては楽しい教育実習?でした。その後、理数科プロジェクトが私のいた島であったのでもっと有効的な教育をしたことでしょう。

もうすぐ原爆記念日です。生徒たちはパール・ハーバーより広島、長崎を良く知っています。フィリピンの南にもイスラム教徒がいます。過激派のアブ・サヤフもいます。お互いを理解することができれば平和な世の中になると思うのですが…。ほとんどのフィリピン人は「仕合せ」と答えるのに。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感