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会社への手紙8 [フィリピン]

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タイのバンコクのある王宮

任国外旅行
1994-07-03

さて、今回は任国外旅行について書きます。この趣旨は近隣諸国の隊員と意見交換し、情報を収集する。同職種関連施設の視察をすることで協力活動を効果的にかつ円滑に推し進め理解認識を深めることです。隊員はオフィシャルパスポート(緑色の公用旅券)を使用しているので派遣先の国々で渡航先が制限されています。フィリピンはタイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、香港です。北アフリカの国ではフランスやスペインに行けます。期間は3週間以内(私は20泊21日)で運賃は834ドル支給されました。しかし私の航空運賃は984ドルと150ドルは自己負担しました。その他361ドル滞在費として健康管理手当てを支給されます。私はタイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア4ヶ国に行き約1,700ドル使いました。
5月フィリピンは学校が夏休みなのでこの時期隊員は約20名弱出国する予定でした。しかしフィリピン政府から再入国許可証が発行されず約10名は延期になってしまいました(外務省はOKだけど法務省が日本政府のビザ発行が厳しいのでその対抗処置としたらしい)。私は幸い5月中旬だったので予定通り出発しました。

5/12フィリピンの出国手続きで再入国許可証が無かったのでジャカルタでビザを取り直す(フィリピン側からの特別処置)と言い無事通過。マニラ発15:05 TG621でバンコクへ。この飛行機は大阪が始発らしく日本人が多く乗っていた。1人日本人のシチュワーデスが乗っており、ガイドブックも持っていなかったのでバンコクとアユタヤ(江戸初期、山田長政が活躍した所)の観光ポイントを聞いた。「アユタヤのホテルは?」と聞いたら、あそこは虫などが出るので泊まるなと言われているし、バンコクからは2時間で日帰りコースだそうである。空港前の駅から電車に乗りアユタヤへ1時間半弱、案内はタイの文字なので人に何回も「アユタヤ?」と聞きながら行った。英語は通じない、田園風景の中に幾つも工場があり作業服を着た女性が多くいた。飯は近くの屋台でおいしい、日本人町は何もなかったが遺跡は良かった。次の日バンコクへバスで2時間、安ホテルでも白人が何人かいた。夕方アメリカ人(なじみの人らしい)の送別会でちゃっかり夕食にありついた。隣のカナダ人夫妻と楽しく話していた。私の相棒(T.I)はその後タイ人と外へ飲みに行ったが、オカマだったらしく部屋まで付いて来て私が寝ていたので彼は助かったそうだ。バンコクの王宮はすばらしかったが入場料は高かった。お土産にジムトンプソンのネクタイを買ったが、あと1年必要が無い。お店は日本人だらけ、TシャツにGパンは我々だけだった。女性はシルクスーツを着て今回の国では1番おしゃれと思った。

5/15バンコク発9:00 TG415でクアラルンプールへ。イギリス領だったので英語は通じる。町は高層ビルも多く近代的、インフラも進んでおり地方へ行く道路も良い。車も国産車が走っている。ただイスラム教国、スクーターに女性がスカーフとヘルメットをかぶって乗っているとテルテル坊主みたいで面白い。酒は高いマレーシアでは協力隊の調整員のマンションでビールと焼酎(もとは料理用)以外飲めなかった。バスで5時間、ボートで2時間半かけて国立公園へ行ったが、白人のタフさと鹿を見た位であまり良くなかった。ボロ小屋のホテルではベルギー人の女性と一緒、安いから男も女もなしなのか?電気はジェネレーター発電、ベープマットを持参したが停電中は役に立たない。ベルギーには蚊はいなく蚊帳も蚊取り線香もないとのことしかし彼女はしっかり使用していた。ベルギーは5月がバケーションシーズンらしい。マレーシアはこれといって面白くなかった。

5/21シンガポールへ、クアラルンプール発9:30 MH603便。ここの目的はSEAFDEC(東南アジア漁業開発センター)の水産加工局を訪問するのがメインなので24時間しか予定していませんでした。SEAFDECはちなみに私の任地の近くに(200km離れている)に養殖局がありそこのJICA専門家から紹介されたシンガポール人をあてにして行ったのですが、なんと私の協力隊二次面接の時の試験官(この試験官は「食品加工については私より知っている」と言った。)いるのでビックリ。食事、観光、そしてマンションの泊めてもらった(2年間で唯一のお風呂はここ)。使ったお金は、空港からのタクシー代と空港使用料だけ。ここでの研究はすり身(蒲鉾のもと)製品の品質向上で日本の食品メーカーと同じテーマです。私が"Singapore has already developed country"と言ったらシンガポール人はうれしそうに否定していました。この専門家からの手紙の一部を書きます。
「風のように来て、風のように去って行った二人、2度と青年時代にもどれない老人(自分をそう思いたくないが)にとってはうらやましい限りの、新鮮さと、さわやかさを感じました。私が多少からんで貴兄のような好青年が、協力隊に合格してくれて自分が何かほこらしく思えました(感激的でした)。」この手紙はフィリピンに帰って心のささえになった1通です。((^^ゞその後イロイロ市で再開しました。)

5/21シンガポール発11:00 SQ154でジャカルタそしてGA438でジョグジャカルタへ。今回の旅行でSQのスチュワーデスのユニホームが1番良かった。なぜなら胸の辺りに余裕があり見えそうで見えない。ちなみにスタイルはTGがベスト。PR(フィリピン)は国内線は良いが国際線は最悪ババアが乗っている。ジョグジャカルタでは市内観光とボルボドールの遺跡見学。このときはベルギー人のカップルを誘い4人で車をチャターして行ったのですが、何故か物売りは我々日本人だけを相手にする。日本語を話すガイドも多くいる。この遺跡はJICAが協力して修復したそうですが逆に日本人が良い食い物になっている。入場料も外国人の価格は現地人の10倍位だった。

5/24ジョグジャカルタからデンパサールへGA630 8:00発。バリ島のクタは最悪、物売りがしつこい。対策としては集団で歩かない、5m位感覚をおくとしつこくない。物売りはしきりに「マリファナ、マリファナ」と言う。海は波が荒く浜も汚い、サファー向き。他のリゾート、サヌールやヌサドゥアは物売りは無いそうですが、物価は高く日本人団体旅行向け、海はそんなにきれいでないそうである。しかし、ここから3時間半車で行くとムンジャガン島がある。ここはダイビングのグッドポイント。サンゴと色々な魚がいっぱい、私はナポレオンフィッシュ(大型魚)を見て感激した。しかし、ダイナマイトフィッシングのおかげでサンゴは破壊しつつあった。バリはヒンドゥー教の島であり内陸地は魅力的である。芸術の村ウブドは日本の田舎(奈良かな)によく似ており今回の旅行で1番お気に入りである。人もすれていない。毎晩、各部落でダンスショーがありエンジョイできる。私はカエルを食べた。
ところでインドネシア語とマレーシア語はよく言葉が似ているそうだ。フィリピンで使われている言葉も一部似ているものが有る。たとえば「Mahal=高い」、「Kita=私たち」。しかしタガログ語で"Mahal kita."と言うと"I love you."になるがインドネシア人には理解してもらえなかった。

5/30デンバサール発9:45 GA801でジャカルタへ。この目的はビザを取るだけ。しかし、ジャカルタでビザを取るのは我々が最初なのでJICA→フィリピン領事館→日本領事館→JICA→日本大使館→フィリピン大使館とたらい回し。お役所は面倒です。

6/1ジャカルタ発12:10 PR536で無事マニラへ。入国手続きでビザの説明をしてフィリピンへ入国。マニラ空港のタクシーはボルのでまじめなタクシーを探すのにひと苦労(我々だけならバスで帰るが荷物がいっぱいなマレーシアの隊員と一緒だった為)。やっぱりフィリピンの水が私には合っているみたいです。

フィリピンへ帰国後色々問題があり、このレポートを書いている途中、英文のレポートを書かなくてはならなかった。このレポートも蚊が部屋中に飛び回る中で深夜まで書いているため乱筆乱文失礼います。(オフィスの今まで住んでいた部屋から、窓の無い4畳位の部屋に荷物が移っていた。フィリピンのこと「たらばほ」を参照して下さい。)

次回のレポートはこの問題の中間報告(フィリピンのこと「水産界」を参照して下さい。)ができると思います。

それからS常務が無くなられたこと大変残念に思います。日本はこれから本格的な夏ですね、では皆さんお元気で。

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