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会社への手紙9 [フィリピン]

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クラブ パラダイス

隊員総会後の1週間
1994-11-06

10月は私の任地のお祭り(ハチかサソリに足を刺されてだいぶはれました。)と隊員総会(風邪で鼻水ガラガラ声)がマニラであり早く日が過ぎた気がしてます。この間にも色々と話題はあるのですが、今回は隊員総会後の1週間について書きます。

10月29日隊員6名(内女性1名)、専門家1名でミンドロオ島とパラワン島の間の小島(名前は忘れました)へ行きました。ここはクラブ・パラダイスと言うリゾートがあり、2泊3日で約350ドル(食事、飛行機代を含む)で楽しむことができました。我々隊員の生活費がフィリピンでは330ドルなので日本の価値観で考えると安いですが少しもったいない気もしました。ちょうどホリーウィークにかかるので、フィリピン人の金持ち、ドイツ人(ドイツ人がオナー)日本人(大使館、JICA関係)で日本からの旅行者はいなくフィリピン在住の人が多かった。また子供連れの夫婦が多かった。島はホワイトビーチで水も澄んでいた。この小島については日本の旅行ガイドブック「エリアガイド」にも記載してある。私としてはボラカイ島の方が色々な意味で刺激的なので好きである。

詳しいことはガイドブックに書いてあるのでここであった問題について書きます。10月31日帰京の日、ボートで1時間、ジプニーで20分かけて飛行場のある島へ行きました。道中白人はニッパハウスやボートに乗っているフィリピン人を写真に撮っていました。我々はいつものことなのでのんびり景色を見ていましたが。
飛行場では10時出発で飛行場もあるのに出発をしない。理由は定員オーバー、ドイツ人の4名が国際線の出発日を間違え今日帰国するとのこと、ここでターゲットになるのが変な日本人の集団の我々、飛行機をもう1機チャーターするとのことだがそれが着くのは2時か3時ころ、我々はもう1泊クラブパラダイスに宿泊することで席を譲った。今日は空港見学ツアーとゆうことで良しとした。
しかし、悲劇がまだあった。我々と行きが同じだったドイツ人(男)2名とフィリピン人(女)2名(このフィリピン人はマニラで買われたと思う)。行きのボートではいちゃいちゃしていたのにフィリピン人2人は泣いている。話しを聞くと、帰りのエアーチケットが予約していないのである。2人のドイツ人は2人のフィリピン人をゴミのようにこの島に捨てて行こうとしている。⇒捨てて行った。地元のフィリピン人はまた男を取れば金はできると言っていたが、女はもういいといっていた。結局彼女らは船でマニラへ帰ったようである。我々はそのドイツ人に席をゆずるのなら反対したが、別のグループなので席を譲った。
クラブパラダイスの人に聞いたら前者はよくあることだが、後者は始めてだと言っていた。捨てられた女性に「文句を言えば」と進めたが、黙っていた。そして我々はクラブパラダイスのスタッフとそこにいた大使館家族の人々に「何で帰ってきたの」という顔され(大使館の人は好意的)1泊した。女(フィリピン人)を連れて来る日本人が多いと言っていたが、ゴミみたいに捨てて行く日本人がいないだけ立派である。

11月3日、JICA副総裁がマニラに来ているので協力隊数名が食事に招待された。私は副総裁の隣の席だったので、本人が飾らない性格もあり色々と話しができた。「今度は協力隊中心に視察する」と言ってくれたので今後に期待する。また、副総裁は新しい産業がなければ日本は金が無くなりODA(政府開発援助)も縮小しなければならない、今はTとNが儲け過ぎていると言っていた。ODAについて私は金額より内容(使い道)が重要と思う。日本では色々とニュースになっているようですが。

話しは前後しますが、FTVがクラブパラダイスへジュゴンの撮影のため来たそうですが、これはやらせで地元の漁民には評判が悪いようです。11月8日に放送されるそうですが見ましたか?

では年末なので生産に忙しいでしょうが、体に気を付けてください。
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会社への手紙8 [フィリピン]

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タイのバンコクのある王宮

任国外旅行
1994-07-03

さて、今回は任国外旅行について書きます。この趣旨は近隣諸国の隊員と意見交換し、情報を収集する。同職種関連施設の視察をすることで協力活動を効果的にかつ円滑に推し進め理解認識を深めることです。隊員はオフィシャルパスポート(緑色の公用旅券)を使用しているので派遣先の国々で渡航先が制限されています。フィリピンはタイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、香港です。北アフリカの国ではフランスやスペインに行けます。期間は3週間以内(私は20泊21日)で運賃は834ドル支給されました。しかし私の航空運賃は984ドルと150ドルは自己負担しました。その他361ドル滞在費として健康管理手当てを支給されます。私はタイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア4ヶ国に行き約1,700ドル使いました。
5月フィリピンは学校が夏休みなのでこの時期隊員は約20名弱出国する予定でした。しかしフィリピン政府から再入国許可証が発行されず約10名は延期になってしまいました(外務省はOKだけど法務省が日本政府のビザ発行が厳しいのでその対抗処置としたらしい)。私は幸い5月中旬だったので予定通り出発しました。

5/12フィリピンの出国手続きで再入国許可証が無かったのでジャカルタでビザを取り直す(フィリピン側からの特別処置)と言い無事通過。マニラ発15:05 TG621でバンコクへ。この飛行機は大阪が始発らしく日本人が多く乗っていた。1人日本人のシチュワーデスが乗っており、ガイドブックも持っていなかったのでバンコクとアユタヤ(江戸初期、山田長政が活躍した所)の観光ポイントを聞いた。「アユタヤのホテルは?」と聞いたら、あそこは虫などが出るので泊まるなと言われているし、バンコクからは2時間で日帰りコースだそうである。空港前の駅から電車に乗りアユタヤへ1時間半弱、案内はタイの文字なので人に何回も「アユタヤ?」と聞きながら行った。英語は通じない、田園風景の中に幾つも工場があり作業服を着た女性が多くいた。飯は近くの屋台でおいしい、日本人町は何もなかったが遺跡は良かった。次の日バンコクへバスで2時間、安ホテルでも白人が何人かいた。夕方アメリカ人(なじみの人らしい)の送別会でちゃっかり夕食にありついた。隣のカナダ人夫妻と楽しく話していた。私の相棒(T.I)はその後タイ人と外へ飲みに行ったが、オカマだったらしく部屋まで付いて来て私が寝ていたので彼は助かったそうだ。バンコクの王宮はすばらしかったが入場料は高かった。お土産にジムトンプソンのネクタイを買ったが、あと1年必要が無い。お店は日本人だらけ、TシャツにGパンは我々だけだった。女性はシルクスーツを着て今回の国では1番おしゃれと思った。

5/15バンコク発9:00 TG415でクアラルンプールへ。イギリス領だったので英語は通じる。町は高層ビルも多く近代的、インフラも進んでおり地方へ行く道路も良い。車も国産車が走っている。ただイスラム教国、スクーターに女性がスカーフとヘルメットをかぶって乗っているとテルテル坊主みたいで面白い。酒は高いマレーシアでは協力隊の調整員のマンションでビールと焼酎(もとは料理用)以外飲めなかった。バスで5時間、ボートで2時間半かけて国立公園へ行ったが、白人のタフさと鹿を見た位であまり良くなかった。ボロ小屋のホテルではベルギー人の女性と一緒、安いから男も女もなしなのか?電気はジェネレーター発電、ベープマットを持参したが停電中は役に立たない。ベルギーには蚊はいなく蚊帳も蚊取り線香もないとのことしかし彼女はしっかり使用していた。ベルギーは5月がバケーションシーズンらしい。マレーシアはこれといって面白くなかった。

5/21シンガポールへ、クアラルンプール発9:30 MH603便。ここの目的はSEAFDEC(東南アジア漁業開発センター)の水産加工局を訪問するのがメインなので24時間しか予定していませんでした。SEAFDECはちなみに私の任地の近くに(200km離れている)に養殖局がありそこのJICA専門家から紹介されたシンガポール人をあてにして行ったのですが、なんと私の協力隊二次面接の時の試験官(この試験官は「食品加工については私より知っている」と言った。)いるのでビックリ。食事、観光、そしてマンションの泊めてもらった(2年間で唯一のお風呂はここ)。使ったお金は、空港からのタクシー代と空港使用料だけ。ここでの研究はすり身(蒲鉾のもと)製品の品質向上で日本の食品メーカーと同じテーマです。私が"Singapore has already developed country"と言ったらシンガポール人はうれしそうに否定していました。この専門家からの手紙の一部を書きます。
「風のように来て、風のように去って行った二人、2度と青年時代にもどれない老人(自分をそう思いたくないが)にとってはうらやましい限りの、新鮮さと、さわやかさを感じました。私が多少からんで貴兄のような好青年が、協力隊に合格してくれて自分が何かほこらしく思えました(感激的でした)。」この手紙はフィリピンに帰って心のささえになった1通です。((^^ゞその後イロイロ市で再開しました。)

5/21シンガポール発11:00 SQ154でジャカルタそしてGA438でジョグジャカルタへ。今回の旅行でSQのスチュワーデスのユニホームが1番良かった。なぜなら胸の辺りに余裕があり見えそうで見えない。ちなみにスタイルはTGがベスト。PR(フィリピン)は国内線は良いが国際線は最悪ババアが乗っている。ジョグジャカルタでは市内観光とボルボドールの遺跡見学。このときはベルギー人のカップルを誘い4人で車をチャターして行ったのですが、何故か物売りは我々日本人だけを相手にする。日本語を話すガイドも多くいる。この遺跡はJICAが協力して修復したそうですが逆に日本人が良い食い物になっている。入場料も外国人の価格は現地人の10倍位だった。

5/24ジョグジャカルタからデンパサールへGA630 8:00発。バリ島のクタは最悪、物売りがしつこい。対策としては集団で歩かない、5m位感覚をおくとしつこくない。物売りはしきりに「マリファナ、マリファナ」と言う。海は波が荒く浜も汚い、サファー向き。他のリゾート、サヌールやヌサドゥアは物売りは無いそうですが、物価は高く日本人団体旅行向け、海はそんなにきれいでないそうである。しかし、ここから3時間半車で行くとムンジャガン島がある。ここはダイビングのグッドポイント。サンゴと色々な魚がいっぱい、私はナポレオンフィッシュ(大型魚)を見て感激した。しかし、ダイナマイトフィッシングのおかげでサンゴは破壊しつつあった。バリはヒンドゥー教の島であり内陸地は魅力的である。芸術の村ウブドは日本の田舎(奈良かな)によく似ており今回の旅行で1番お気に入りである。人もすれていない。毎晩、各部落でダンスショーがありエンジョイできる。私はカエルを食べた。
ところでインドネシア語とマレーシア語はよく言葉が似ているそうだ。フィリピンで使われている言葉も一部似ているものが有る。たとえば「Mahal=高い」、「Kita=私たち」。しかしタガログ語で"Mahal kita."と言うと"I love you."になるがインドネシア人には理解してもらえなかった。

5/30デンバサール発9:45 GA801でジャカルタへ。この目的はビザを取るだけ。しかし、ジャカルタでビザを取るのは我々が最初なのでJICA→フィリピン領事館→日本領事館→JICA→日本大使館→フィリピン大使館とたらい回し。お役所は面倒です。

6/1ジャカルタ発12:10 PR536で無事マニラへ。入国手続きでビザの説明をしてフィリピンへ入国。マニラ空港のタクシーはボルのでまじめなタクシーを探すのにひと苦労(我々だけならバスで帰るが荷物がいっぱいなマレーシアの隊員と一緒だった為)。やっぱりフィリピンの水が私には合っているみたいです。

フィリピンへ帰国後色々問題があり、このレポートを書いている途中、英文のレポートを書かなくてはならなかった。このレポートも蚊が部屋中に飛び回る中で深夜まで書いているため乱筆乱文失礼います。(オフィスの今まで住んでいた部屋から、窓の無い4畳位の部屋に荷物が移っていた。フィリピンのこと「たらばほ」を参照して下さい。)

次回のレポートはこの問題の中間報告(フィリピンのこと「水産界」を参照して下さい。)ができると思います。

それからS常務が無くなられたこと大変残念に思います。日本はこれから本格的な夏ですね、では皆さんお元気で。

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会社への手紙7 [フィリピン]

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イロイロ市の祭りディナギアン

続きでお正月
1994-02-03

今日は節分、こちらではピーナッツのことを「Mani」と言います。日本語のマメとよくにています。しかしピーナッツは煮てあるのでグチャグチャしおいしくありません。
1月はこれといった活動もせず、これからの活動計画を作ったりHigh Schoolの図書館へ行って調べものをしていました。1月22日はイロイロ市で行われたディナギアンの祭り、
これはSto.Nino=幼きイエスの祭りで全身にペイントをし鳥ににたような服を着てパレードをします。朝の7時からお昼頃までうろうろ歩き回っていたので時間は早く過た気がしまた。今、フィリピンではガソリン代がP10.15→P11.65(イロイロ)に値上りをし、マニラやミンダナオではストライキが多いそうです。イロイロではバス会社がストをしているそうですが、生活には影響がありません。しかし、Nata de cocoで私の上司が大金を必要とし、私の食事代(すでに支払い済み)まで使い込むので、お金がお手伝いさんに渡らず毎食ご飯に魚一匹の生活をしていました。近所の人々は逆に私に対して哀れみを感じ"Nalouy kami sa imo. Pero, walan kuaruta."「私たちはあなたを哀れと思っている。しかし、お金が無い」と。私はまあそれでも良いのですが、お手伝いさんが神経質になり、少しこまったので二重払いをした後で精算するつもりです。

今回は前回の続きでお正月について書きます。
昨年の12月27日から1月3日まで台風のおかげで8日間も停電があり、毎晩ケロシン(灯油)ランプの生活でした。キャンドルライトがロマンチックなのは電気のある世界だけ、でも冷たい水が飲めない位(冷蔵庫の中には水とワクチンくらいしか常時入っていない)で特別不便だと感ずることもありませんでした。
大晦日はラム酒(340ml P15~17 70円弱)を近所の人と飲みRadio Japanから流れる紅白歌合戦を聞いていましたが、受信状態が悪くほとんど理解することはできませんでした。
フィリピン時間11:00PM(日本時間12:00AM)偶然中波バンドから「君が代」が流れ「日本は一足先に新年だな」と思っていました。12時になるとバイクや車が空き缶などを付け町の回りを20分位廻り爆竹をならすので、日本の除夜の鐘がなるおごさかなお正月とは大違いです。もっともヨーロッパも爆竹をならすようですが。
元日はラム酒の飲み過ぎで悪酔いし一日中ぐったり。現地の人は教会へミサに行ってました。
2日は私の任地で日本人の結婚式があると聞いたので教会へ見物に行きました。相手は任地の島から日本へ行ったジャパ行きさん。彼女はパスポートをプロモーターに取られ、スナックもすぐにつぶれたとかで苦労したみたいです。しかし、家族の生活レベルは向上しています。家を買ったり船を買ったり、別のジャパ行きさんは移動デスコセット「アンプ、スピーカー、イコライザー、プレイヤー等」を買いレンタルで商売しています。祭りごとの有るときは一日中音楽がなりっぱなしですが、これが任地の人のステイタスでもあるみたいです。
日本人は前科6犯、先妻とは20年位前に別れ、子供を引き取りその子供が結婚したので彼女と結婚したそうです。「フィリピンでけんかをしたら命が無いのでけんかはしないで下さい」と言っておきました。さすがに財布の紐は奥さんが握っており、旦那は言われるままになっていました。日本とは金銭感覚が違うから、そちらのほうがベターですが。また、食べ物があわないらしく、ビールもぬるいので(電気の無い島)、ほとんど食事をしなく奥さんは困っていました。でも、旦那は私の任期中にまたフィリピンに来るといっていました。今度来る時はふりかけや日本食をいっぱい持ってくることでしょう。

ではお元気で、次回号をお楽しみに!!
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会社への手紙6 [フィリピン]

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モロ教会の16人の女性聖人像

クリスマスとお正月
1994-01-05

新年あけましておめでとうございます。ラジオジャパンをきくかぎりでは、今年は例年より雪が多いかと思います。こちらは12月号で書いたとおり雨期がまだ終わらず毎週大雨と大風です。気温も日本の9月頃で私は少し寒いと感じています。雨が降れば新潟の冬と同じ空模様です。Bolacay島と云うリゾートが200km西にありハイシーズンは12月の乾期からと地球の歩き方に書いてありますがウソです。年末・年始の休みにフィリピンへのバカンスは避けた方が良いです。

さて、今回のテーマはクリスマスとお正月です。9月1日私はマニラのタクシーの中でクリスマスソングを聞きました。同乗していたボランティアーは3日前にも聞いたそうです。それだけフィリピンの人はクリスマスを楽しみにしています。11月下旬頃からは日本のビアーガーデンみたいに色々な色のイルミネーションを屋根や窓に飾ります。夜が暗い(電灯が少ない)フィリピンではケバケバしく見えます。そして金や銀色のプラスチックフィルム製の飾り(日本の七夕の飾りと同様音のでるものもあり)を玄関の前に吊るしておきクリスマスツリーはビニール袋に色々な色素を入れそれを家の前に置きます。

クリスマスの2・3日前には日本の忘年会みたいなものが、小学校・中学校にもありそれが終わってから1月日までクリスマス休みです。金のある子供達は当然クリスマスプレゼントももらえます。クリスマスイブの夜はクリスチャンは教会へ行き歌を聞いている人やブラブラしている人(私を含む)さまざまです。プロテスタントた7days Adventistの教会は何もしていないようでした(小さな田舎町だけかもしれませんが?)。
そして、夜中の12時皆で食事をします。私は寝ていたのですが起こされました。ラジオはクリスマスソングのオンパレードです。日本のクリスマスイブから想像するロマンスは全然ありません。公園ではクリスマスツリーコンテストもあり、新聞紙・ヤシの葉・竹等色々の材質でで作られた日本では考えられないツリーも有りました。

クリスマスの当日私は犬の鳴き声で起きました。現地の人はまた教会へ行ってミサを聞いています。この日は子供にクリスチャンネームを付ける日でもあるみたいです。昼飯は隣の家のおばさんの妹の家で食べることにしました。家の庭には大きな鍋で…キバをむき出しにした丸い形のものが4つ・・・”Ido(犬)?”朝の異様な泣き声をそこで理解しました。キニラオ(酢漬け)と煮付け?になり私も食べました。味は山羊のようです。匂いは思ったよりありませんでした。
周りにいた犬は心なし涙顔で元気が無くかわいそうでした。犬の足(生肉)を与えたら尻尾を下げて逃げて行きましたが犬の煮付けは食べていました。ルソン島(マニラのある島)の北部だけ犬を食べると思っていましたがこちらでも体験でき良かったです。
家に帰ったらトイレで子犬が横になっていたので持ち上げて外に出したら、まだ朝のショックがあったらしく腰を抜かしたように横たわってしまいました。これが田舎のクリスマスです。長くなったので、お正月は2月号に書きます。ではお元気で皆様によろしくお伝えください。   草々
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会社への手紙5 [フィリピン]

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マニラ湾の朝

食品展示会
1993-12-04

いよいよ今年も最後の月となりました。今年の売上成績はどうだったのでしょうか?こちらではNata de cocoが前々回のレポートに書いたとおりバカ売れ(この地域にしては)でCarles町とIloilo市では屋根だけのガレージで蚊と風雨にさらされながら寝ています。「乾期は終わりかな」と前々回書いたのですが、また台風などが来て近頃は寒くないけど新潟の空と同じ曇り空です。

さて、今回は先月マニラで食品展示会があったのでその出来事について書きます。

11/10 JICA専門家のお宅(イロイロ市郊外、月に$1,500です。ちなみに私は食事付きで月$70です。)からパジェロに乗って空港へ(フィリピンのJICA公用車はパジェロが多い)。すかさずポーターが来たが荷物は1個なのでそのまま空港の中へ。空港の外に配属先のジプニー(車)があたので何か変だなと思ったら、いきなりドライバーのガマが声をかけ「このダンボール5箱を持っていって」とたのまれ、それから先の不安が有ったがまあ、引き受けた。飛行機で1時間弱でマニラへ、いつもならバスに乗ってP2.5でマカティ(マニラの新宿)のドミトリー(協力隊の宿舎)へまで行けるのだが荷物は合計6個、私一人では無理。ポーター料金が6個×P3=P18.飛行場のタクシー乗り場はぼられるので外の道路まで、チップP5.タクシーはすぐにつかまったが乗ったらメーターが壊れている。そこで値段交渉、私はP50で十分なのでその値を云ったがタクシーの運転手はP180と云った。値引きしてP150と(フィリピンではタクシーに乗るときは運転席の隣に座ってください。そのほうが安全です。イロイロ市では逆にドライバーの安全の為、運転席の周りは金網になっています。)。頭に来たので200m位で降りました。お金はもちろん払いません、ドライバーもプライドがありますから。先輩隊員はそれを利用して目的地の近くまで行き、降りるなど離れ業する人もいるそうですが。2台目のタクシーもすぐにつかまりました。私はP50で十分だと云ったのですが、P70と。荷物も有ったのでそれで乗りました。目的地はPhilippin Trad Training Center。良くわからないみたいなので通りの名前を云い、運転手は「俺は正直でP70はかかる」といちようメーターも倒してくれました。しかしタクシーはPTTCを通り過ぎ、運転手は「PTTCはどこ」と聞いている。お店の人は「知らない」と。しょうがないので通りの名前を云いどっちの方向か聞いたら、行き過ぎていた。PTTCに着いたらメーターはP55、それにエアコン車はP12.5をプラスするのでP70弱。確かに運転手の云っている通りだった(?)。

PTTCに着いたが出店がいっぱい有り何処かわからない。仕方が無いので受け付けに行き話しをしたが、変な外国人と思ったらしく話しが通じない。IDカード(身分証明書)はあるかと聞かれたのでJICAのIDを見せたら対応が変わった。このPTTCはあとで解ったのだがJICAが作ったのであった。そんなことがありもう11時になった。11時からはJICA職員と打合せが有ったのですが1時間遅れで12時から打合せ(食品加工の講義をJICA専門家の依頼でする)をした。
次の日から私が時々一人で店番をしていた。フィリピン人からはタガログ語で話されるので英語でと、日本人に話しかけると「日本語が上手ですね。」と云われるので、だんだん現地化してきているようです。展示物は、コヒー豆・ココア(チョコレート)・果実(ドリアン・バナナ等)・ラーメン・ハチ蜜・キノコ・お菓子・Nata de coco 等で凄いと思ったのは有りませんでした。おやつに色々食べることができたのが幸いでしたが。

とまだ色々有ったのですが帰りのマニラ空港の手荷物検査で「中国人」かと聞かれ「日本人」と。そしたら日本語で「英語は話せる」と、”Yes, and Ilongo(現地語)”と答えたらチェックが厳しくなった。「ポケットの中を見せろ」と云ったので見せ、その中にJICAのIDが有ったのでそれを見せたら納得してもらった。待合室に行ったら偶然他の協力隊が、両親と一緒にフィリピン旅行に行くとの事だった。「手荷物検査で引き止められた?」と聞いたら「そんなことは無かった」と。一般の旅行者らしくするのが良いみたいです。そしてイロイロ市からカルレス町行きのバスの中で、物売りの女の子が「カリボ(リゾートの有るボラカイ島の乗り換え地)行きは別のバスだ」と云っている。この時は大きいバックパックを背負っていたので外国人とわかったのでしょう。バスの車掌は私のことを知っていたので、確認したらこれで良いと。

話しは前後しますが、PTTCで私は、サングラスをかけDパックを肩に掛けながら入ろうとしたら、ガードマンに「Dパックは置いて行け」と。あとでサングラスから普通のメガネに替えカメラを取りに行ったら「Dパックは持っていって良い」と。ガードマンは多分フィリピン人の万引と間違えたらしい。フィリピン人が観る日本人の特徴は切れ長の目である。私はわざと指で目を引っ張り”Happon(日本人)”と云って遊んでます。言葉は英語も現地語もまだ十分ではありませんが、地元の町内会へ佃煮のデモをやるのも一人でなんとかやったりし、だんだん現地化しているようです。

では皆さんよいお年を!!

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会社への手紙4 [フィリピン]

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家の裏のヤシの木

Nata de coco
1993-10-15

日本ではNata de coco(寒天より歯ごたえのあるもの)のフルーツサラダがヒットしていると聞いているので今回のテーマはNata de cocoです。

僕の配属先が先日マニラの物産展でNata de cocoのオーダーを受け今その対応でバタバタしています。こちらでは1本350g入りで150円位ですので高価なデザートです。食べ方はそのままか、ハロハロ(フィリピンのカキ氷)によく入ってます。JICA専門家の家では日本風?にパパイヤ、パイナップル、バナナを入れココナツミルクと砂糖で味付けをしたものを食べました。奥さんの話しではイロイロ市のマーケットではナタデココは品薄だそうです。しかしナタとは何か知らない人が多いので、下記に説明します。現地の人も知りません。

        The Manufactur of Nata
        APPLIED NUTRITION AND TECHNOLOGY
        発行所 REX Book Store
        著者 Dr.Jesse D.Dagoon(West Visaya Univ. 教授)

ナタは厚くぬるぬるした粘液質の膜で砂糖と酢酸溶液を含有している表面にできる。その構成は普通の酢の作り方であり、実際ナタはそれ自身種酢である。
ナタはスペイン語のnadarその意味は泳ぐから由来する。フィリピンにおいてそれはミルクの表面に浮いている厚いバター油をさす。
ナタの組織はデキストリン(本当はセルロース)生成バクテリアLeuconostoc mesenteroides(本当はAcetobacter xylinum)により作りだされる。それは砂糖の中心にいくつかのネバネバしたトラブルが起こる原因と同じバクテリアである。その微生物は有益であり、危害を与える両面性がある。その同じバクテリアの生産したデキストリンは血漿の代用として使われている。
ナタ工業生産はまだ十分に探求されていない。なぜなら食用のナタ生産はわずかな人しか実際に知らない。しかしそれは家内生産が可能である。注目する点はナタ生産はコマーシャルレベルではラグナ州パグサンハンとケソン州のいくつかの町だけである。だが、何人かの外国人が持っている工業団地では今、メトロマニラの近郊でいくつかの食品工業が始まろうとしている。華僑はまだナタ工業生産に権力を持つ。簡単な工程は家庭と学校の栄養実験室か家庭商業クラスで可能である。校長は格好の実験室をより大きな食品団地に適用できる。
以下に例をあげると、ナタデココはココナッツミルクから生産される。それはこの国の原料でも適用できる。
ココナッツミルクからナタデココの作り方(1例として)
材料:熟したココナッツ1個、グラニュー糖1/2cup、氷酢酸大さじ10、ナタスターターか種酢3~4cup
*注 フィリピンでは1cup=236.6cc(200ccではありません)、1tbs(大さじ)=14.9cc、1tsp(小さじ)=4・9cc
生産の細かい点
1.熟したココナッツ1個から水により抽出したクリームを最初に準備する。
2.トータルで16cupになるよう水を加える。
3.ふるいに掛けた砂糖1/2cup、氷酢酸1/2cupと酵母スターターをよくかき混ぜる。
4.殺菌した広口ビンか耐腐食性のボウルに分ける。
5.ゴムバンドかひもで2枚かさねの汚れていない紙でしばる。
6.約15日間、混ぜたものを涼暗なじゃまにならないとこに置く。
収穫は15日後である。この時ナタはよい形となっている。収穫後の溶液はすてず後のためスターターとして使う。
ナタを立方体に約1/2から3/4インチに切る。酸っぱい臭いが取れるまでカットナタを2・3日水につけ毎日2・3回水を替える。その後水を替え約1時間臭いが取れるまでボイルする。臭いが無くなったら水気を取り砂糖をナタ1cupに砂糖1cupの割合で加える。そして約1時間加熱し別の日のため取っておく。その時は食用色素を加えることもできる。
次の日ナタが半透明に変わるまで再び適度な火でボイルし火が通ったことを確認する。フレーバーはこの時加える。フレーバーナタは簡単な工程である。最後の工程中望みのフルーツジュースをボイル中のナタに加える。この方法は他のフレーバーでも同様である。
後の問題としてナタの組織が薄いか不活発の時、これは主として不餓死のバクテリアが混ざっているからである。特にココナッツミルク以外の他の原料を使う時、この場合ココナッツウオーターはナタ生成の微生物に必要な養分が含有しているのでそれを加える。もしこの救済的な対策が効果のないときは、ココナッツスキムミルクの工程に戻る。
*15日後の収穫は硬いナタ、9日後は柔らかいナタができる。

私の配属先では使用済みのビンを再利用しています。(5円/1本)。ちなみに新品は30.20円/1本です。Manpowerのあまっている国では当然中古品が安くつきます。
ビン殺菌の意味を十分理解していないので今まで安息香酸Naを使用しています。日本のバイヤーからは糖濃度を50%→25%にしたものと安息香酸Naの無いものを要望されているので配合を変えて作る予定です。       以上

P.S.フィリピンからの研修生は顔を見せたでしょうか?ナタデココの話しでも聞いて見てください。
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会社への手紙3 [フィリピン]

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同封した写真

カルレス町の紹介
1993-08-09

今日は新潟の花火大会そしてお盆休み前なので、何かと忙しいと思います。また、今年は新潟明訓が甲子園へ出場したとラジオで聞きましたが、ラジオジャパンでは試合の結果しか放送しないので少し残念です。フィリピンは今雨期の真っ只中なので僕の靴にはカビが生え、足は蚊に刺された所が化膿しやすくなり月のクレーターみたいになっています。

さて、今回のレポートはまだ、カルレス町(僕の任地)の紹介していないのでそれを題とします。
フィリピンの中央部ビサヤ諸島の一番西に三角形の島(パナイ島)がありその東端の町がカルレス町です。マニラから飛行機で1時間弱(4,600円位)でイロイロ市へ、イロイロ市からバスで4時間約150kmの行程です(200円位)。途中の50km位は未舗装なので乾期の時などは全身ほこりにまみれます。そしてバスのシートはただの長椅子で間隔も狭いのでイロイロ市へ日帰りで行くときは疲れます。
人口は42,000人、世帯数7,200本土と14の島で構成されています。産業は漁業が中心で稲作もしています。High school(日本の中学校程度)は本土に2ヶ所、島に2ヶ所で就学率は70%位です。小学校は多くありますが、休講が多いみたいでとなりの女の子は学校に行かない時がちょくちょくあります。病院は17kmはなれた2つ先の町にあり、この町には医者1名、看護婦1名、助産婦8名と歯医者が1名です。医療レベルはわかりせん。電気の普及率は30%位なのでメインストリートから遠くなると夜はランプの生活となります。無くてこまっているものは電話、コピー、宅急便、上水道位でしょうか。とにかく日本と違って情報量の少ないのはたいへんです。
水は井戸水か雨水を使用していますが、大きな食品生産をするとなると大量に水が必要なので現段階では無理と考えて入ます。家はココナッツの木、竹、ニッパヤシで作った粗末なものが主で、少し高級になるとブロックで作った家となりますがたいした差はありません。この様な家ですからエアコンの使用は無駄です。蚊も自由に出入りできるのです。今は蚊取り線香愛好者です。
食事は魚が主体です。鰯が14匹で20円位、イカが40円位、ミルクフィッシュは5匹で85円位です。パイナップルが1個85円(イロイロ市では40円位)マンゴが1個19円位です。米は1kg60円です。野菜はナス、カボチャ、ニガウリ、トマト(小)、タマネギ(小)、などと葉っぱを食べます。肉はあまり食べません。(飼料が違うせいかおいしくない)。シニガンと云う日本のみそ汁代りのようなものは酸味が強いのであまり好きではありませんが、現地の人は酸味に強いようです。
人間性は良いと感じます。(本土の人々)、マーケットに行く途中など知らない人からもめずらしいこともあるでしょうか声を掛けられます。しかし英語を使える人は少ないです。僕の英語はカウンターパートで90%、友達で70%位理解してもらっているそうです。しかしむずかしい話しは辞書を使わないとダメです。それとRとLの発音日本人はほとんどができないのでとなりの高校の先生は発音ができたらKissをしてくれると云ってました。
町のはずれに小高い丘がありそこからは町の全景と岬になているため日の出と日没が見られます。写真を1枚同封します。僕の家は中央の砂浜が木でさえぎられた所です。左側の建物は小学校と教会、マーケット等です。奥の木はココナッツです。まあ、何にも無いですが気に入ってます。
それから次号はまた事務局経由となりますので少し遅れると思います。     以上
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会社への手紙2 [フィリピン]

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サンミゲルビール

お酒
1993-07-18

津波、選挙、大相撲と先週はRadio Japanに釘付けでした。現地の人からも選挙と津波の情報は入りましたが、大相撲の結果はさすがに入ってきません。7月になり雨が降るようになりましたが、ジメジメした感じもなく雨期といってもたいしたことはないようです。今、太陽は北の方に行っていますが、日中の太陽はほとんど頭上にあるので北に太陽があることはほとんど意識しません。仕事は小魚の佃煮を作ったりしています。それとカウンターパート(仕事の相棒)の教養もあまり高くないので、技術移転は算数(パーセント、体積の求め方、比重等)から始めています。

今回はお酒について書きます。
ビール330ml サンミゲルピルゼンP7.50=¥31.50 ゴールデンイーグルP5=¥21とうもろこしを使用しているとのこと(今思えばキリン淡麗のような発泡酒だったのかも) ラム350ml約P15=¥63 
トュバ(ココヤシノ樹液をとり自然発酵させたもの臭いがおいしい)コップ1杯P1=¥4.2 ミサ用ワイン720ml約P200=¥840です。サンミゲルピルゼンはマニラの一流ホテルでP60レストランでP20くらいです。ビールは高いのでアルコール中毒の人はラムを多く飲んでいます。

しかし、こちらの人は酔うとプッツンします。6月24日はSt.John dayとか云って休日でもないのに朝から酒を飲み海へ行って水泳をします。この日42,000人のCarlesの中で8名の人がケンカをして死んだそうです。これは毎年のことらしく僕は外出を控えるように当日言われました。それからミサ用のワインですが、神父と知り合いになりワインが好きだと云ったらほとんど満タンで1本くれました。品質は良くないのですが、当日のうちにほとんど一人で飲んでしまいました。酒の飲み方は集中して飲むようになり、先週はビール1本しか飲んでいません。しかもバーやスナック等でなく家か家の裏の海で飲んでいます。死にたくなかったら酔わないのが一番です。フィリピンの北部では女性は酒を飲みませんがこの地では少し位なら飲むのでたまには一緒に飲んでいます。   以上

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会社への手紙1 [フィリピン]

協力隊へ現職参加していたので、会社へは毎月レーポートを書いていた。
フィリピンで何を見、感じていたか手元にある13通は・・・。

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フィリピン大学ロスバニョス校

フィリピンに来て驚いたこと
1993-04-22

・気候:今は真夏で日差しは強く日焼けはしますが、日陰ではあまり暑くありません。

・物価:P1(ペソ)=¥4.5(今は¥3) ビール(330ml)P8ビン代P2、コーラP5、インスタントラーメンP4、米1kg P11~P16位、昼食代 マニラP50 地方P30 、レストランP250まあまあ、スナック(カラオケバー)良い席に座ってP1,000 並P500、夜のお姉さんの給料P3,000、僕の生活費P7,500(住居費は別)現地の50歳くらいの人の給料と同じそうです。

治安:ホテル、オフィスはもちろんファーストフードやコンビニエンスストアーにもショットガンやピストルを持ったガードマンがいます(発砲した音は聞いたことはないけど)。公共の場所ではIDカード(身分証明書)が必要です。

交通:交通ルールは最悪です。歩行者は大通りでも平気で信号無視(これはなれました)。車はクラクションを鳴らし車線変更するのが好きみたいです。車は新型のベンツから15年前のカローラまで様々です。タイヤはグッドイヤーが多い。

・近況:今日は食当たりをして午前中は寝ていました。今はマニラから南へ100km位の所(ロスバニョス)フィリピン大学の農学部で現地語の訓練中です。

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フィリピンのこと9 [フィリピン]

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Bancalで売っていた干物

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セマの娘と親戚

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オフィスステイしていた時の近所の家族

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魚を売っているビクトリアの兄弟

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ビクトリアの家族

「21年後のCarles」
2017年1月6日から1月12日

前回に続き2年以上も過ぎてしまった。古いソフトを使っているのでHPのUPは気合が必要だ。

今回の話は2013年11月にあった台風30号(アジア名:Haiyan、フィリピン名:Yolanda)がCarlesを直撃したので、セマに連絡を入れたのが始まり。彼女の携帯電話へは1週間後に繋がった。離島の住民が7名位亡くなったようだが心配はいらないと言っていた。2015年はフィジーにいることが決まっていたので、2016年にCarlesに行くかもと伝えた。そして彼女は「どうして私の携帯番号を知っているの?」と聞いたので、「8年前にCarlesヘ行った時に教えてもらった」と伝えた。

モニターの付いていないフィリピン航空機で暇にしながらマニラへ。空港ではフィジーのツナ工場で働いているロケが迎えに来てくれた。フィジーにいた時から、彼のクリスマス休暇に合わせたフィリピンを訪問を約束していた。マニラの市内に出るのは、新潟の高校生を引率した以来なので19年ぶり。協力隊のドミトリーの近くにあったマンダリンホテルがなくなっていた。Makatiのグリーンベルトは池以外に当時の面影はない。多くの日本食レストランができていて、日本食も食べ放題のレストランでロケの両親と食事をした。ロケの奥さんはZamboangaに住んでいるので、治安が良くなれば行ってみたい。

マニラからパナイ島へはKalibo経由で行くことにした。理由は新潟県出身の協力隊員2名がKalibo近郊で活動していたので。新しいKaliboの空港はBorakayの玄関口なので混んでいた。私が隊員の時はBolakayのオフシーズンがあったが、その後水質汚染が問題になるまで通年営業をしていたのね。翌朝、協力隊員の配属先を訪問してから、Roxas、Balasan経由でCarlesヘ。協力隊時代に一番近所の隊員がホームステイしていたMambusaoの家族が私のHPを見て連絡をくれたが、今はCebu在住なので美味しいバッチョイを食べるのをあきらめた。Roxasでミニバスの乗り継ぎは待ち時間が少なくて助かったが、Balasanの街並みが変わっておりCarles行のジプニー乗り場を聞きまくっていた。

BalasanからCarlesへの道は赤土の道から舗装になったので快適。私が住んでいたオフィスの前で降りて中に入る。ご婦人たちが集まっていて様子が変わっていたが、セマの兄(ボーイ)の妻スーザンが直ぐに対応してくれた。セマは教会の裏に住んでいるとのことで、ボーイがバイクで送ってくれた。彼の両親は他界していたが、サウジアラビアのでアメ車を打っている娘のシンシンとは滞在中にスカイプで話した。長女のケンケンは香港で子守をしているそうだ。送り先は私の上司(中学校の校長)のセキュリティガードをしていた家で、懐かしい顔と再会した。セマはその裏に土地を借りて住んでおり、ニッパヤシと竹でできている懐かしい家(今はブロックが多い)に住んいた。質素な暮らしの理由は娘を授かったからかな。セマはフルタイムで中学校の授業をしていない。主人はセマが作った惣菜を中学校の前で売って生活費を得ているようである。

暗くなるまで時間があったので、街中を散策した。広場には魚のモニュメンと屋根付きになったバスケットコートとマーケットができていた。マーケットで魚を見ていたら「Gaki」と声をかけられた。 なんとカウンターパートだったビクトリアの妹弟たちが魚を売っていたのである。妹の顔は昔の面影がある。他の妹弟は当時まだ小学生になっていなかったが、私のことを覚えていた。その後、警察署の裏を遠回りして海岸線を歩いていたら、また声をかけられた。そこはちょうど隊員時代に井戸を使わせてもらった、ご近所の裏庭だった。井戸は電動ポンプがついていたが壊れていて手でくみ上げていた。当時は手動ポンプだったので、今のほうが大変。夕食はセマからココナッツオイルの香りがするトルタンタロン(茄子のオムレツ)を作ってもらい、満足をして寝た。

翌日はセマからバイクを借りてCarlesを周った。配属先の同僚だったミラの主人と偶然会って新しい家へ行った。10年前に訪れた時はミラがいなかったのだが、息子から私が訪れた話を聞いたそうだ(私は言われるまで忘れていたけど)。二人の息子は船員とブラジルで働いているとのこと。ミラの家は小高い所にあるので、台風のときは近所の家が吹きとばされたそうだ。海側のビクトリアの実家も吹き飛ばされ、木造になったと言っていた。さらに中学校に顔をだしてセマの妹のインダイや先生たちに挨拶。そして岬の先端、Puntaまで行ったが、10年前にできていた水産加工場は廃墟になっていた。台風からの復興で新しい家が目立ち、地形も変わっていた。
今度はBancal方面へ、漁港は埠頭や製氷保管所ができていた。港からは10時発でNoth GiganteのLangob(帰路は14時発)まで75ペソで船が出ており、リゾートで一泊しなくても2時間半滞在して日帰りができる。次回行ってみようかな。港では離島で作った品質の良さそうな魚の干物が売られていた。観光案内所のかわいい子や干物売りの子は聞きやすい英語を話していた。そしてPoblacionにいた知恵おくれの少女(現在35歳位)が、港で元気そうに物貰いをしていたのでほっこりした。さらに奥へ進んでウミウシのエサは何かと10年前にあった養殖場を探したが、なくなっていたので残念だった。
セマ家に戻ったら、セキュリーティーガードの奥さんの誕生日パーティの準備をしていた。中学校の校長や教頭先生も呼んでサンミゲルビールやラム酒を飲んで、楽しい夜を過ごした。

翌朝、バスでIloiloへ向かう。新しいバスターミルはJaroの手前に、空港もSta. Barbaraに移転していたので心配だったが、ビクトリアが迎えに来てくれた。彼女は空港の近くに住んでいて、ケーキ作りをして収入を得ているそうである。旦那は溶接工だったかな、娘は中学校の先生で家族にも会えてよかった。
マニラに戻って、タガログ語の先生をしているベスと19年ぶりに会った。前回は高校生の引率で挨拶をしただけなので、食事をしたのは協力隊後初めて。私の同期隊員と交流が続いており、その伝手で会った。今は現役の協力隊員から色々相談を受けているそうだ。それにしても夜のグリーンベルトは賑やかだった。
   
帰路の日は安倍首相のマニラ訪問と重なっていた。でも安倍首相の到着を気にしていた人は、同じターミナルで私以外にいなかった。日の丸の付いた特別機はターミナルに接続せず、タラップから降りる準備をしていた。
一週間ぶりの自宅は雪で覆われていたので、南国の温かさが恋しかった。今回の旅は世代の移り変わりを痛感した。フィエスタでダンスの審査員をしていたバクラ(オカマ)のことをセマに聞いたが、彼女は話したがらなかった。ドゥテルテ大統領の取り締まりにあったのではと、私は想像している。当時の幼子たちは海外でえ仕事をしていたり地元に残っていたりで、今後の活躍が楽しみである。また、10年後に幸せそうな顔を見に行きたくなった。
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